書評

『暦のしずく』(朝日新聞出版)

  • 2025/07/29
暦のしずく / 沢木 耕太郎
暦のしずく
  • 著者:沢木 耕太郎
  • 出版社:朝日新聞出版
  • 装丁:単行本(560ページ)
  • 発売日:2025-06-20
  • ISBN-10:4022520620
  • ISBN-13:978-4022520623

馬場文耕なる者、けしからんと獄門

馬場文耕(ぶんこう)の本は無ければ、日本国に甚大な悪影響が及ぶ「文化のインフラ本」だ。文耕は江戸の講釈師だが、大江戸ジャーナリズムのチャンピオン。徳川政権の暗部恥部を臆せず報道した。今も世界は報道と表現の自由が脅かされ続けている。ペンを剣で脅す独裁国に平和はない。必ず、戦争をやる。ペンが剣より強く、知識・言論の自由交換がなければ、産業技術の発達は難しい。豊かにも幸福にも平和にもならない。歴史の教訓だ。

今や大河ドラマで注目すべきは蔦屋重三郎よりほぼ同時代の文耕だ。そう思っていたら、本書が出て驚いた。さらに著者に驚愕(きょうがく)した。沢木耕太郎氏。『深夜特急』など名紀行文のイメージが強く、馬場文耕の時代小説を書かれるとは、夢にも思わなかった。近年、伊集院静氏、宮本輝氏など現代小説の巨匠作家が「初の時代小説」を発表する例が多い。「商売敵」の専業の歴史小説家からみれば史料捜索や読解に言いたいこともあるだろう。しかし、私から見れば、文句なしに素晴らしい。人物・テーマの選定、切り口が鋭いからだ。作中に書き込むべき主人公のエピソードがなくても歴史の動きが少々おかしくても、気にならない。むしろ小説だから面白い。日本発展の背景には「大江戸の自由」がある。江戸人は三千万のうち百万以上が大江戸にいた。兵農分離と参勤交代制のせいだ。世界中でも異様に都会的国で、この都市の自由と教養が経済大国化・自由民主主義化の下地になった。

著者の筆は奔放だ。文耕を将軍に対面させたり、甲賀の者に襲わせたりする。しかし的は外さない。文耕にこう叫ばせる。「今の世の真(まこと)は古(いにしえ)の書本の中にはございません…巷(ちまた)にございます」。ただ年貢(税)を「手にするだけの御方には、巷に生きる者の苦しさなどわかりますまい。だから、政(まつりごと)が民を助ける正しいものになっていこうとしない」。世襲政治家や監督下企業に天下る官僚に読ませたいセリフだ。文耕の筆はすさまじい。本書には引用がないが、将軍嫡子・徳川家治と閑院宮倫子(ともこ)との結婚の内幕も書く。「倫子に付いて京都から下ってきた公家の広橋中将殿の息女は今日日本第一の美女という。倫子はこの美女を家治に進ぜようとしたが、お付きの女中衆が止めた。あまりに美しいので、もしや倫子様の身代わりになってはと考え、田安徳川家の奥に預けた。それで田安さんは幸せだ、と、専らの噂(うわさ)」(「宝丙密(ほうへいみつが)秘登津(ひとつ)」)。文耕はこれを実名で書いた。

文春砲ならぬ文耕砲だ。諸藩の悪事もみな実名報道。権力者もただの人間として自由に報じた。幕府は判決文で「金に困って書いていた」と文耕を貶(おとし)めたが違う。文耕には命がけの正義感があった。行き過ぎた縁故人事(幕府)、無責任な銀札政策(秋田藩)、不当な課税で一揆(郡上藩)。文耕は権威を恐れず世に知らせた。結果、見せしめで打ち首獄門に。勿論(もちろん)、口封じだ。ただ私は、文耕が登場できた大江戸の自由とユーモアを評価したい。文耕の命日をもって「表現の自由の日」とし、全ての政治家と司法当局者は憲法に基づいて、これを尊重することを誓う日にしたいぐらいだ。さもないと、今後日本も隣の権威主義独裁国に近づきかねないこのご時世だ。
暦のしずく / 沢木 耕太郎
暦のしずく
  • 著者:沢木 耕太郎
  • 出版社:朝日新聞出版
  • 装丁:単行本(560ページ)
  • 発売日:2025-06-20
  • ISBN-10:4022520620
  • ISBN-13:978-4022520623

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2025年6月21日

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