書評
『深海の地図をつくる 五大洋の底をめぐる命がけの競争』(柏書房)
人類共通の財産か 秘境に眠る資源お宝
居間に置いてある地球儀を眺めながら考えごとをするのが好きだ。指でなぞると、ヒマラヤ山脈はかなり出っ張っているし、日本は小さいながら複雑な高低が感じられ、なかなかよい地形だと思う。著者も子どもの頃から同じことを楽しみながらも、海は世界中変わることなく示されていることには、何の疑問も抱かなかったとある。そして今、海洋ジャーナリストとなって、海底地図をつくろうとしている人たちにインタビューし、時に現場に同行することで、海が陸に続く複雑な構造をもつことを知り、関心を深めていった。
「私たちは海の底よりも月の表面について、はるかに多くを知っている」のが現状だ。人工衛星から見た海面の凸凹や、重力の測定から予測しての地図はあるが、実態ではない。漁業、海上輸送、観光など従来の海の利用は、深海底とは無関係だったが、近年、光ファイバーケーブル、資源採掘などの産業と軍事機関とがそこに目を向け始めている。その中で、二〇一七年の国連総会が、二〇二一年から三〇年までを「持続可能な開発のための国連海洋科学の10年」と決め、これに応えて、Seabed2030というプロジェクトが始まった。中核はモナコが一九〇三年に設立し、海底地形図づくりをしてきた大洋水深総図という組織だが、運営には我が国の日本財団が貢献している。それを中心にしたさまざまな活動の中からいくつかトピックスを見ていこう。
まず、マリー・サープが興味深い。英語・音楽・数学・地質学の学位をもつサープは、コロンビア大学の地質研究所で海底地図づくりに関わる。海底測量で得られたデータ(心電図のように上下する波形が、海底の山や谷を示す)をもとに地図を描いていた彼女は、ある時気づいた。すべての図の同じ位置で、巨大な海嶺が海底から隆起し、その内部にV字型の裂け目があるのだ。これは地溝帯に違いなく、地質学者たちが無視し続けている大陸移動があった証拠だ。ぜひ確かめたい。
残念ながら、一九五〇年代は、女性の観測船への乗船が許されなかったのだが、理解ある上司のデータ提供のお陰で納得のいく地図が描けた。その後、プレートテクトニクス理論が登場し、科学界も大陸移動を受け入れたが、これを誰にもわかる形で示したのは、一九六七年の『ナショナル ジオグラフィック』誌に掲載されたサープの地図だった。科学の始まりに女性が関わる例は少なくなく、これもその一つだ。
北極海での海底調査は、クラウドソーシングで行われた。地球温暖化の影響が最も大きく出ている北極では、氷が溶け航海しやすくなっている。これが各国の関心を呼び、二〇〇七年にはロシアが北極海の海底に自国の旗を立てた。北極圏にあるイヌイットの集落(人口3000人に満たず)アルヴィアトにも文明の波が押し寄せ、ドーナツチェーンやスーパーマーケットがあるが、生活はむしろ苦しくなり、貧困、食糧不足に悩む日々となっている。ゴミをあさるシロクマに襲われる危険も高まっているとのことだ。
ドローンなど機械での調査が主流になる中で、ここではクラウドソーシングを選んだのは、コストの問題もあるが、この地を理解しているのはここに暮らす人であり、この地はこれからもこの人たちの場であることを示すためでもある。
「昔からともに暮らしてきた海をマッピングしようとする彼らから、とてつもない力があふれている」という言葉から分かるように、自然を活(い)かして生きる未来のために、現地人による調査の持つ意義は大きい。
近年、深海の資源への関心は高まっている。とくにマンガンを主成分とし、ニッケル、コバルト、銅、レアアースを含む団塊が狙われている。難航の末にやっと一九九四年に発効した国連海洋法条約は、海を「人類の共同の財産」としているが、アメリカは署名を拒否している。
海底も地球であり、その姿を知ることが地球への愛につながるという研究者たちの気持ちが、Seabed2030を支えてきた。ところが近年、この活動への反対の声があがり始めている。地上の自然を破壊している人間が、秘境とされている深海にまで手を伸ばさないようにしようと考える人々からの声である。深海の生態系と資源は想像以上に豊かなのだ。
国連によると海底には沈没船三〇〇万隻、水中遺跡多数があるとのことで、これも関心を呼んでいる。著者の調べでは、採掘企業のもつ地形図の方が、研究者のそれよりも詳細だと言われると、反対する人々の懸念も理解できる。資源採掘時の残滓(ざんし)がパイプから海へと出る時に巻き上がる噴煙は、何百キロも先まで浮遊する恐れがあり、その生態系への影響は大きい。地上以上の慎重さが求められるのである。
「高解像度でマッピングされた海底は全体の二三・四パーセント」にまでなったプロジェクトを否定せず、地球の理解が賢い生き方を導くという方向での、未来を考えたい。
ALL REVIEWSをフォローする





































