23人が問う 想像力の可能性と人間の生
「人は動物をどのようにとらえ、えがいてきたのか。(中略)前提となる動物という概念を複数の専門性に根ざした視点でできるだけ根源的に掘り返し、さらに人と動物の関係性そのものに注目することによって、互いの間にひらかれた『えがくこと』の意味を問い直そう」。本書の意図である。執筆者は、人類学、生物学、認知科学、比較文学などの研究者12人と画家、詩人、ダンサー、音楽家、陶芸家、ゲーム制作者など表現者11人と多彩である。
人間とは何かを問う人類学が、今なぜこのような形で動物に注目するのだろう。理由は二つあるように思う。一つは「Ⅰ 動物を観察してえがく」で示される。ある大学の教員養成課程の学生が描いたアリの絵がなんとも面白い。小学校で、昆虫は体が頭・胸・腹の三つに分かれ、脚は六本と習っているはずだが、頭と体の二つだったり四つに分かれたりしている絵があるのだ。脚は六本共胸にあるのだが、腹にも生えている絵があったり、中には四本のものさえある。「自然を詳細に認識する必要のない社会の中で私たちは暮らしている」と気づいた先生は、自然と人間の間のつなぎ直しが必要であり、そこでえがくという行為が役割を果たすはずと考えた。
もう一つは、近年の生物学の進歩により、人間は動物の一つであり、進化の過程で他の動物たちと同じものを受け継いでいることが明らかになったことである。動物は私たちの外側にも内側にも存在しているのであり、「動物を認識し、想像し、理解すること」は、「ある環境のなかで私たちの内と外を貫くさまざまな関係性をとらえること」になる。それを「えがく」という切り口で見ていくのは面白い。観察に加えて「Ⅱ 動物を想ってえがく」「Ⅲ 動物イメージの変容をえがく」「Ⅳ 動物とつながるためにえがく」とさまざまな視点が出される。
Ⅱでは、「福島の高校生」が東日本大震災での原発事故後に放射性物質警戒区域内に取り残された子牛になって語る<キレイになりたくて>という音声ドラマ作品をとり上げる。子牛は事故のことなど知らず、「おじさんは戻ってきて僕をピカピカにしてくれる」と言うのだ。地震の時は子どもであり、子牛と同じように放射能への疑問を感じてはいなかったという女子高生たちだが、そこに理解しやすい人間の論理を被せずに、動物のわからなさに向き合う。このような子牛との関係の中で生まれる声が、聞く人を今も続く核災害の複雑さに出会わせるのである。執筆者は、ここでは声による表現が肝だと書く。
ここで詩人は言う。「森で、現実の対象が見分けられるようになることと、言語というべったりとひろがる平面で、ある語がなまなましく際立ってくることには、何か類推的なところがあるのではないか」と。そして、詩は問いの場なので、際立ってきた語で、ヒトと動物との距離を測りつつ、ヒトの側からの歩み寄りを試みると自らを一瞥できるのかもしれないと。
Ⅲの「変容」には、世界各地の洞窟や岩陰に見られる古代の絵や彫刻で圧倒的に多いモチーフは動物であるというくだりがある。当時の人たちにとって動物は身近であると同時に畏れるものでもあり、神聖な存在として描かれた可能性もある。ここで働いた想像力の可能性を知るヒントとして、アボリジニの例があげられる。岩絵に、頭が昆虫で体が魚、手足は人間というキメラが描かれているが、これは今も残る口承物語に登場する精霊なのである。古代にも物語があったのではないだろうか。子どもがお絵かきの時、手を動かしているうちになんとなく表れてきた形から想像を膨らませておばけを生み出す例も、一つのヒントだ。「えがく」ということによるこのような創造は、古代から現代へと続き、動物との関わりを豊かにしているのである。
Ⅳの「つながり」では、カナダの先住民とモンゴルの牧畜民という、動物に依存して暮らす人々が、動物とのつながりを保つために、かけ声や歌など音によるコミュニケーションを発達させ、動物の声を読み解いていることが示される。音は、人と動物の間だけでなく、人と森や草原という自然全体との結びつきをも生む。
興味深いのは、専門家の絵には人物が多く、洞窟壁画、障害者アート、子どもの絵、民族芸術は動物画であり、野生的で動きを感じさせることである。そこにはヒトとアニマとの間のコミュニケーション、更には往来がある。まさにつながりだ。
再現性のあるデータによる理解を進めてきた科学の方法と、絵画、ダンス、文学、音楽などの表現とを重ね合わせて動物について考えることは、動物の一つである人間の生のあり方を問うことになる。気候変動など現代の難問解決のために科学ができることとして、生きものの一つとしての人間を考えることがあると思っているので、本書のアプローチを興味深い試みと受け止めた。