対西洋の優位性と、同一性の表裏
日本人は古くから入浴を好むと言われている。果たしてその歴史はどれほど古いのか。今日のような入浴習慣はいつまでさかのぼるか。これらの疑問に答えるために、著者は分野横断的な検証を試みた。六世紀半ば、仏教とともに日本に蒸し風呂が伝来し、営利目的の浴場は遅くとも鎌倉時代には出現した。室町、戦国時代になっても、民衆向けの風呂屋は蒸し風呂という様式が受け継がれた。
江戸初期になると、蒸し風呂と湯につかる温浴が混合したものが現れた。「柘榴口」と呼ばれる構造で、浴槽のある風呂場は蒸気が充満していて内部は暗い。給水設備がなく、頻繁な湯の取り換えはできない。いまと比べて風呂の湯は汚れていた。
「柘榴口」は幕末まで続いたが、明治に入ってから徐々に変化が起きた。自治体による規制は最初、混浴の禁止や屋外から風呂場への視線の遮断など、「非文明的」な風習の取り締まりを主眼としていた。時代が下ると、都市計画の一環として防火機能が重視され、大衆浴場の構造設備に対する規定が多くなった。明治三十年頃から、入浴の設備も入浴の風景もいまと近いものに変わりはじめた。その過程で人々の衛生意識が変容し、清潔と不潔に対する感度が高くなった。
近代教育において衛生観念がどのように浸透したかについても検討が行われた。明治大正期の女子教育では風呂の習慣が家庭衛生の観念として強調され、初等教育でも清潔規範の意識が教科学習を通して植え付けられた。
日清、日露戦争のあと、日本人の自己像に対し広く関心が寄せられ、国民性についての言説は注目を集めた。そのなかで、風呂好きは民族特殊性の表徴として語られ、「入浴好きで清潔な日本人」という神話は作り出された。そのあたりの顚末は詳細な資料調査と丁寧な文献解読によって明らかにされた。
欧米との比較は本書のもう一つの読みどころだ。近代化の過程において入浴が身体管理の一環として注目された点では欧州と日本は同じだが、近代日本の西洋を見る目には相反する二つのベクトルがある。明治から大正にかけて、欧米の入浴文化を取り入れようと呼びかける主張がある一方、日本には古来、日々沐浴する美風があるが、欧米諸国の人々は毎日入浴するわけではないと指摘する声もあった。両者は一見、相反する見方のようだが、じつは絨毯の両面のように表裏一体になっている。風呂好きと清潔意識は連想的な関係にあり、後者から西洋との同一性を見いだしたとき、風呂好きは文化アイデンティティの創出において、西洋との差別化を図る上で必要不可欠な特質とされた。
そもそも「日本人が風呂好き」という通念は現在でも必ずしも正しい認識とはいえない。ある調査によると、「毎回湯船につかる」人は冬には二人に一人、夏には三人に一人だという。三十代の男性にいたっては五人に一人しかいない。また、風呂に入るのが「好き」な人が七割弱なのに対し、三割強が「面倒」に感じているという意識調査の結果もある。風呂好きを日本人の習性と結び付けるのは類型化にもとづく文化の自己定義に過ぎない。その自己定義が形成される過程が周到な分析によって明快に解き明かされた。