書評
『戦場の精神史 ~武士道という幻影』(NHK出版)
だまし討ちも肯定したリアルな像
国際的に日本の文化や精神を説明するとき、よく使われるのが「武士道」である。しかし、このフェア・プレー精神にのっとって正々堂々と戦うとされる「武士道」なるものは歴史上に存在していない、と著者は断言する。『平家物語』など軍記物語を研究する著者は、合戦の物語に登場する武士の動きを探ってゆくうちに、それが「武士道」精神にふさわしいような内容のものではとてもないことから、武士のあり方を広く探求してゆくことになった。
そこでまず戦場での「だまし討ち」の問題をとりあげる。『平家物語』の「越中前司最期」の章に見える、武蔵の武士の猪俣則綱が、だまし討ちによって平氏一門の越中前司盛俊を討ち取った話を紹介し、だまし討ちが中世を通じて広く肯定されていたばかりか、近世の武士においても、だまし討ちを肯定する言説が広がっていたと指摘する。
ならば、だまし討ちが、どうして日本の社会に肯定的に捉えられてきたのであろうか。この点を、さかのぼってヤマトタケルがクマソタケルを征伐したという神話の話に始まり、『太平記』や『甲陽軍鑑』など、中世から近世社会にかけての文献を渉猟して探ってゆく。
合戦と狩猟とはどう違うのか、よく一騎討ちにはフェアプレーの精神があったというが、本当にそうだったのかなどの問題をこれまでの研究を吟味しつつ丁寧に考察する。
そして中世前期の文献に見える「兵の習」や「兵の道」などは武士の倫理とは関係はなく、武士の習慣といった程度のものであったとして退ける。
こうして、強さと紐帯(ちゅうたい)を求める武士の感覚や倫理は、謀略戦を戦い抜き、常に勝利のために真実を追求する武将の心構えとして発展したものであったと指摘し、近代にいわれているような「武士道」は存在しなかったと、きっぱりと否定する。
近代になって武士道を語ったものとしてよく読まれ尊重された、「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」と述べた山本常朝の『葉隠』についても、これは敵を倒す武将の立場のものではなく、奉公人の立場で記されたものであり、基本的には時代の流れとはいささか違うものであったと指摘する。
このように近代になるまで、「武士道」は存在していないのにもかかわらず武士道が喧伝されるようになったのは、新渡戸稲造が『武士道』を著し、国際的に紹介したことによるところが大きかった。
ところがこれは日本の武士に関する文献をほとんど読まずに書かれており、「武士道」を西洋の騎士の倫理に対応するものとして描いたものであって、自画像を他者の目によって形成する、虚構の産物であったとする。
最近の映画「ラスト・サムライ」の影響から「武士道」への関心が強まっているが、著者は武士へのリアルな認識を求めている。
近年の武士研究は、武士の虚像を剥(は)ぐ試みを盛んに行っており、本書もその延長上にあるが、広く合戦の場に即し、武士の行動やその規範を探りながら検討を加えていて、きわめて説得力がある。
武士道の幻影から離れ、リアルな武士の像を把握するのに成功しているといえよう。ただ合戦での武士の具体的姿は軍記物語などに見られるものだけではなく、むしろ軍記物語に語られていない日常があることも考慮すべきであろう。
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