書評
『生類の思想: 体液をめぐって』(かたばみ書房)
生命あるものは同類 地球に生きる意味
著者の藤原辰史は、『[決定版]ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(共和国)、『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社)など、歴史学的視点から「食」についてのユニークな論考を展開してきた。本書は体系的な論考というよりは、思想的なエッセイという形式ではあるが、「生類」や「体液」といったキーワードを軸にして、興味深い論点の萌芽(ほうが)がいくつも提示されている。著者の主張を表面だけなぞれば、自然農法礼賛、化石燃料と資本主義への批判、農業の機械化に対する懐疑など、ありがちなエコロジストの主張に見えてしまう側面があることは否めない。しかし、それは単純な誤解だ。著者はそもそも「環境」という言葉を批判する。環境とは「なにかをとりまく外界」という意味であり、そこには「(環境としての)内界」が含まれていないからだ。それゆえ環境破壊が人間破壊であるという切迫感が薄れてしまう。かくして著者は「環境」ならぬ「生類」という言葉がまとう広がりと深まりに賭けようとする。
「生類」といえば徳川幕府五代将軍綱吉の「生類憐(あわれ)みの令」が連想されるだろうが、著者はむしろ石牟礼道子『苦海浄土』の言葉「生類のみやこはいずくなりや」を参照する。虫ケラから人間に至る、生命を持つ者全て同類とみなす「生類」の言葉は、有機水銀に汚染された水俣湾についての石牟礼の思索からもたらされた。「体液は、海をめぐり、雲にのぼり、山に降り注ぎ、川を流れ、大気に溶け込み、数え切れぬ生類の体をつらぬく」とあるように、循環する体液と生類はきわめて密接な関係におかれている。
それは決して「ユートピア」などではない。例えば体液の循環から隔離された完全な無菌室において、ハツカネズミの寿命は1・5倍にもなるという。言い換えるなら人間は、3分の1の時間を犠牲にして、生類たちの体液の巡りとつきあってきたのだ。人間にとって有害なもの(細菌や有害物質)も多分に含む体液の巡りに翻弄(ほんろう)されることを、著者は否定しない。なぜなら体液こそは私たちのうちにある、「畏怖(いふ)すべき自然の結晶」なのだから。
著者のスタンスが最も苛烈に表出されているのが「培養肉」を巡る一文である。培養肉とは、牛などの筋細胞を体外で組織培養した食品を指す。もし現在の食肉がすべて培養肉に置き換わったら、牧畜による環境負荷は大幅に軽減されるだろう。大気汚染が93%、水使用量が78%減少し、温暖化にも抑止的に働くという試算がある。人工の肉への抵抗感を除けば、いいことずくめだ。しかし著者は言う。培養肉は食行為がはらむ摩擦と抵抗(食肉解体のような)をゼロに近づける。そのような摩擦のない世界に生きることは、地球に生きることと言いうるのか、と。
これは決して文学的な感傷などではない。このスタイルの思考が、果たして「ケア」をどうとらえるかをみてみよう。著者は次のように言う。生きることは体液が「漏れる」ことだ(涙、汗、尿など)。ケアとは漏れを社会から隠しつつ、漏れていることが人間の本質であるとして、その人をいたわることなのだ、と。評者はここにおいて、石牟礼道子がこの世に遺(のこ)した思想の、最良の“飛沫(ひまつ)”を見た思いがした。
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