新書でたどる「自生的秩序」の知的な履歴
傑出した経済学者・思想家フリードリヒ・ハイエク(一八九九-一九九二)の全貌を描く新書版の評伝の大作だ。時代と共に歩んだ彼の生涯を回遊式庭園のようにたどる。「入門」でなく「卒業」かと思うほどの充実ぶり。二○世紀の知的パノラマを追体験できてわくわくする。ハイエクは「自生的秩序」を説いたことで有名な自由主義者。業績は≪経済学はもちろん、法哲学、政治学、科学哲学、社会思想、そして心理学など…幅広い≫。本書は彼の数多(あまた)の著作や論敵の主張を簡潔に要約し、論争を立体的に描き出す。初学者もその興奮を存分に味わえる。
ハイエクはウィーンに生まれ、落日のオーストリア=ハンガリー帝国で育つ。ユダヤ系だとするのは誤りだ。文学に憧れ、第一次世界大戦をイタリア戦線で戦った。ウィーン大学で心理学をかじったのち、メンガー、ベーム=バヴェルク、ミーゼスらオーストリア学派の経済学の道に進む。哲学者のウィトゲンシュタインとは遠縁で顔見知りだった。
戦後の混乱のなか『貨幣理論と景気循環』『価格と生産』を発表。アメリカ大恐慌を予見した。ヒトラーがオーストリアを併合すると、師ミーゼスら学派はウィーンを脱出、ハイエクもロンドンに移った。『貨幣論』や『一般理論』を著したケインズと論争になった。ケインズに軍配が上がり、『一般理論』は一世を風靡(ふうび)した。一九四九年にシカゴ大学に移り、一九六二年には西ドイツのフライブルク大学に移っている。
この間ハイエクは多彩な書物群を著した。『利潤、利子および投資』はケインズへの反論。『資本の純粋理論』はオーストリア学派流の資本の理論。編著『集産主義計画経済の理論』は計画経済の批判。『個人主義と経済秩序』は市場と知識の問題を扱い、≪競争とは…意見の形成の過程≫だとした。『隷属への道』は彼の代表作。社会主義を批判して、理想は高いが方法が間違っているからダメだとした。『感覚秩序』は打って変わって、人間の脳神経過程を細胞レヴェルで考察する心理学の本。サイバネティックスやオートポイエーシスの先駆となる独創的な作品だ。カール・ポパーやマイケル・ポランニーら創造的知性と交流した。『自由の条件』はハイエク六○歳の代表作だ。自由とは、他人の≪強制に服していない状態≫のこと。自由な諸個人が相互交渉し、意図しなくても秩序を市場にうみだす。彼の描く社会の原イメージである。福祉国家は政府が何でも仕切るのがよくない。
「自生的秩序」の語が初出するのは次作の『法と立法と自由』。これは、ルールと秩序/社会正義の幻想/自由人の政治的秩序、を論ずる三冊本だ。言語や市場制度や貨幣制度が自生的秩序の例である。法の支配は法治主義とは違って、国家を法で拘束し≪人々の権利と自由を保障すること≫。市場経済が、道徳や正義から切り離され自生的秩序の枠を外れて、マネーゲームが暴走するのはいけないと警鐘を鳴らす。
一九七四年にノーベル経済学賞を受賞すると、ハイエクは再び注目を集めた。『貨幣の脱国有化論』は、政府や中央銀行が貨幣を発行するのをやめ、民間に任せよという大胆な提案だ。『致命的な思いあがり』は遺稿をまとめた論文集である。
驚くのは、ハイエクの知的な履歴を彩るきらびやかな人脈だ。すでにのべた人びと以外にも、マッハ、ケルゼン、ロールズ、ノージック、サンデル、フリードマン、…といった大物たちと火花を散らす。その火花が順番に著作になった。論敵として横綱級なのはケインズ。資質は正反対だが互いに敬意を払っている。
もうひとつ印象的なのは、思索のスケールが大きいこと。彼の経済学は、政治や法や社会や道徳や歴史や心理や…いろんな領域と結びついている。そもそもヨーロッパの経済学がそうだった。アメリカに中心が移って、経済学は貧相になった。
ハイエクはよく、新自由主義や保守主義の頭目だとされる。本当か。≪全くの誤解≫だ、と著者は言う。『自由の条件』に「なぜ私は保守主義者ではないのか」と題する章がある。彼は保守主義に批判的だ。また≪「新自由主義」…の実態は明瞭ではない≫し、ハイエク批判として≪的を射ていない≫。ハイエクの著書に謙虚に耳を傾けなさいと言う。
ハイエクは、理性万能主義に否定的だ。マルクス主義が典型だが、社会主義もナチズムも、人間の考えたアイデアを政府の権力を使って社会に押しつけようとする。すると社会が歪(ゆが)んでしまう。むしろ政府は、法律を守って人びとの自由を保障し、人びとはめいめい創意をこらして各自の道を行くのがよい。すると、思いもよらないよいかたちが現れるかもしれない。自生的秩序である。
著者の太子堂正称(たいしどうまさのり)氏は、一○年かけて本書に取り組み、しかも一度完成した原稿をまるまる書き直したという。ただものではない。巻末の人名・事項索引が万全なうえ、参考文献リストの充実ぶりがすばらしい。これからの研究の基点になる。著者はまだまだやってくれそうで楽しみである。ハイエクの新しい像がわが国の財産となったことを喜ぼう。