本文抜粋

『カルドア 技術革新と分配の経済学― 一般均衡から経験科学へ―』(名古屋大学出版会)

  • 2020/12/03
カルドア 技術革新と分配の経済学― 一般均衡から経験科学へ― / 木村 雄一
カルドア 技術革新と分配の経済学― 一般均衡から経験科学へ―
  • 著者:木村 雄一
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(256ページ)
  • 発売日:2020-11-11
  • ISBN-10:4815810060
  • ISBN-13:978-4815810061
内容紹介:
シュンペーターとケインズの融合や格差問題など、現代的領域の先駆者として理論に革新をもたらす一方、国連職員、開発経済学者、イギリス労働党顧問などのさまざまな顔を通じて社会に深くかかわり、現実に即した経済学の必要を訴え続けた稀代のエコノミストの全体像を提示する。
現代経済学の巨人、ニコラス・カルドア。彼に関する研究書として、日本語では初となる『カルドア 技術革新と分配の経済学』がこのたび出版されました。「格差」の問題がクローズアップされる昨今、カルドアの経済理論・思想から何を学ぶことができるでしょうか。本書の内容を、本文から抜粋してご紹介します。

格差の経済学のパイオニア。ノーベル賞を逃した稀代のエコノミストとは?

ニコラス・カルドア(Nicholas Kaldor, 1908-1986)は現代経済学の様々な領域に対して創造的な才能を発揮した、20世紀を代表するイギリスの経済学者である。ジョン・メイナード・ケインズがこの世を去った後の「ケンブリッジ学派」の支柱として活躍し、政治家や経済学者からは親しみをこめて「ニッキィ」と呼ばれた。カルドアのキャリアと功績は、経済理論家、ケインジアン、税務顧問、開発経済学者、イギリス労働党の経済顧問、マネタリズムと新古典派経済学の批判者、と多岐にわたっている。とりわけ戦後の労働党内閣の経済顧問として、選択的雇用税の導入、イギリスのEC加盟への反対、サッチャー政権への厳しい批判など、第二次世界大戦後のイギリス社会の方向性に多大な影響を与えた。

「ケンブリッジ学派」とは、もともとアルフレッド・マーシャルを祖とする「ケンブリッジ学派」を意味する。カルドアが属した「ケンブリッジ学派」は、その次の世代にあたる、ジョーン・ロビンソン、リチャード・カーン、ピエロ・スラッファらケインズの薫陶を受けた経済学者たちが集った学派である。彼らは、ポール・サミュエルソンやロバート・ソローらの「新古典派総合」を掲げるアメリカン・ケインジアンと対峙していた。カルドアは「ケンブリッジ学派」を主導し、「ケンブリッジ方程式」と呼ばれる、「限界生産力」に代替する客観的な分配関係を解明した。興味深いのは、カルドアがアカデミックな経済学教育を受けた大学が、LSE(London School of Economics and Political Science)だったことである。当時のLSEは、ライオネル・ロビンズやフリードリッヒ・ハイエクらを中心に「ロビンズ・サークル」を形成し、オーストリア学派や一般均衡理論などの、限界分析や極大原則に依拠したヨーロッパ大陸の経済学を積極的に導入した。カルドアは彼らの後継者として期待されたのである。「ケインジアン」として名高い「ケンブリッジ学派」のカルドアが、なぜケンブリッジ大学を対峙して聳え立つLSEの出身であったのだろうか。

カルドアの生涯と功績

ここで簡潔にカルドアの生涯を紹介しておこう。カルドアは、イギリスの経済学者という印象が強いが、出生地はハンガリーのブダペストである。ユダヤ人の弁護士を父とし、長じてブダペストの有名なエリートのための学校であるモデル・ギムナジウムに進み、ベルリン大学に入学した。しかしながらベルリン大学での経済学の教育には満足せず、イギリスへ渡ってLSEに入学した。そこで当時ハーバード大学からLSEへ移籍してきたアリン・ヤング教授による経済学の講義に圧倒され、さらに、ロビンズやハイエクといった「オーストリア学派」の薫陶を受けつつも、「ケインズ革命」によって徐々に彼らから離れていく。戦後には国連での仕事に従事したあと、ケンブリッジ大学キングスカレッジのフェローに着任し、教授にまでなった。カルドアは、イギリス労働党の経済顧問や発展途上国の税務顧問の要職を務めつつ、ケインズ経済学を発展させた経済成長・分配論を革命的に打ち立て、世界的なエコノミストとして活躍した。残念なことにカルドアは、受賞に値する研究業績がありながら、「ノーベル経済学賞」を受賞することはなかった。

カルドアの理論的貢献を五点に絞れば、(1)不完全競争の研究、(2)新厚生経済学としての「補償原理」の研究、(3)成長と分配理論の研究、(4)税制の研究、(5)内生的貨幣供給論、があげられる。

これらだけを見てもカルドアは、既存の理論を批判的に検討し、開拓的で独創的な理論を構築したことがわかる。この他にも、ケインズとピグーの実質賃金切り下げをめぐる論争を仲介したり、経路依存性や不確定性、投機的在庫を論じたりと、カルドアのユニークな議論は枚挙にいとまがない。さらに言えば、彼は亡くなるまで、不完全競争モデルとケインズ経済学を接合することや、南北問題に始まる世界経済の構造的問題をとらえる、農工二部門による経済成長モデルの構築を試みていた。このようにカルドアは、現代経済学の重要な研究の領域をほとんどカバーし、しかも現実に応じて柔軟に理論を変化させた経済学の巨人である。

カルドアの経済学を今こそ読み直す

近年、IT産業を中心として世界は経済発展を遂げてきた。市場の効率性を追求し、将来有望な産業に政府が支援するという観点から、ケインズとシュンペーターの理論の統合はこれまで意識されてきた。しかし今日の世界は所得格差によって歪んでいる。さらに歴史的なコロナウィルスによるパンデミックの影響によって、需要側の不足でなく、供給側が崩壊して、失業が増大し格差が拡大し不平等が加速しつつある。「市場の効率性」「資源配分の効率性」ばかりを探究してきた経済学は、「社会的公正」「正義」「格差是正」という「生存権」からの挑戦を受けているといってよい。

かつてミクロ経済学を重視したケインジアンとしての新古典派総合を提唱したサミュエルソンは、数式ばかりの経済理論を展開したかのように見えるが、市場と政府の絶妙なバランス感覚を有していた。クルーグマンやスティグリッツ、ピケティといった欧米の先駆的な経済学者も、同じように市場の効率性ばかりの追求に警鐘を鳴らしている。なかでもクルーグマンは、カルドアと同じように収穫逓増に着目し、近年ではオールド・ケインジアンと呼ばれるように、「リベラル派」に立ち、アメリカの所得格差は共和党によってつくられたと提唱している。かつてミクロ経済学を重視し、「市場効率主義者」であったクルーグマンが、広がる所得格差という現実をまえに自らの見解を変えて、リベラル派の立場から『ニューヨークタイムズ』などに意見を積極的に表明している。カルドアがLSE時代に経路依存や複数均衡を、そしてアリン・ヤングに依拠した収穫逓増をも20世紀中葉にすでに論じていたことや、イギリス労働党の経済顧問として社会民主主義の立場から経済問題を論じていたことを見るならば、今日のクルーグマンのスタンスは、まさにカルドアと同じであると言えるだろう。このように資本主義の経済システムが問われている今まさに、ケインズの衣鉢を継ぎ、20世紀という激動の時代において数多くの理論や政策を考案したカルドア、ひいてはかつてのケンブリッジ学派や過去の学説に目を向けることは、決して無駄ではないだろう。カルドアの経済学はいまだ光を失っていない。時代は、政府の役割を求めていると同時に、新古典派、ポスト・ケインズ派、マルクス派といった学派を横断した、グローバルな規模における「公正な分配」のあり方が問われている。今こそ、カルドアの経済学を改めて読み直す意義があるだろう。

[書き手]木村雄一(1974年生まれ。日本大学商学部准教授)
カルドア 技術革新と分配の経済学― 一般均衡から経験科学へ― / 木村 雄一
カルドア 技術革新と分配の経済学― 一般均衡から経験科学へ―
  • 著者:木村 雄一
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(256ページ)
  • 発売日:2020-11-11
  • ISBN-10:4815810060
  • ISBN-13:978-4815810061
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シュンペーターとケインズの融合や格差問題など、現代的領域の先駆者として理論に革新をもたらす一方、国連職員、開発経済学者、イギリス労働党顧問などのさまざまな顔を通じて社会に深くかかわり、現実に即した経済学の必要を訴え続けた稀代のエコノミストの全体像を提示する。

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