書評
『理由のない場所』(河出書房新社)
息子を亡くした母の孤独と強さ
本書について、作者自身が「小説」であり「フィクション」と言っている、と訳者あとがきに書かれている。けれど、イーユン・リーの愛読者も、はじめて読む人も、とまどうかもしれない。確としたストーリーはなく、母親と息子の対話が続く。十六歳のその息子はどうやら自殺したらしいということがわかる。これが事実に基づいた小説であることは、読者にあらかじめ知らされている。作者自身が十六歳の息子を自殺で失っているのだ。それもあって、私自身、いろいろなことにとまどいながら読み進めた。作者について少しだけ説明する。一九七二年生まれのイーユン・リーは北京生まれ、一九九六年にアメリカの大学に留学し、免疫学を学んでいたが、創作科に編入して英語で小説を発表するようになる。デビュー作『千年の祈り』は数多くの文学賞を受賞し、日本語訳は二〇〇七年に刊行された。その後日本語訳された小説は三冊あるが、いずれも、私小説的な要素のない、完全なフィクションだ。
十六歳の長男が自殺した一か月後に、彼女は本書の執筆をはじめたという。小説のなかでは、息子のニコライがあらわれて、母親と対話をする。
ニコライがどういう子だったのかについて詳細な説明はないが、その口ぶりから、彼がどんな人となりか、ありありとわかってくる。幼いころから聡明で成熟したところがあり、繊細で、完璧主義者。聡明さゆえのとがったユーモアのセンスを持ち、嘘くさいものや安っぽい言いまわしが嫌い。お菓子作りが好きで、友だちも多い。そして、彼は母親にたいしてかなり辛辣だ。この、母親への辛辣さにもとまどってしまうのだが、だんだん、ニコライがこれほど母親に厳しいのは、作者が、感傷的になることをみずからに禁じているからではないかと思えてくる。作者本人が母親としてさいなまれているであろう後悔や疑問や混乱を、ストイックなほどに排して言葉が紡がれていく。
ニコライと会うための場所は――つまりそれはこの本のなかなわけだが、言葉でしか存在し得ない。だから語り手の母親は言葉に非常に厳密だ。中国語を母語として育った母親に、生まれたときから英語が母語の息子は、言葉の正確な意味やニュアンスを指南し、母親は几帳面にその言葉と語源を調べる。ニコライが黙ると、彼はそこにいなくなってしまうから、母親は、正確な言葉をさがし、言葉で彼を挑発し、言葉で過去を浮かび上がらせ、この先の空白をなんとか埋めようとする。いくら言葉を尽くしても、対話を続けても、かなしみは減らない。膜のように二人の対話を覆う。対話から浮かび上がる親密さも、うつくしい記憶も、そのかなしみを消すことはできない。
ニコライがいなくても時間は流れていく。季節は変わり、語り手の一家は引っ越しをする。不在のまま変化していく日々のなかに、ニコライはひょっこりと顔を出す。幼いころに描いた絵や、携帯電話に残った音楽や、クリスマスの思い出や、母親の見る夢のなかにあらわれる。それは母親を安堵させない。息子の死という重い事実を突きつけてくるだけだ。その事実はけっして美化されることがない。
彼と同じ十六歳のときに、中国の古い時代の本から「くだらないものがなかったら、どうして人生の向こう岸にたどり着けるだろう」ということわざを書き写し、この言葉に従うべきだと決意した、と母親はニコライに語る。彼女にとってのくだらないものとは、本を読むことだった。その後、人生そのものになったという読書は、たしかに彼女自身が生き延びるための救命具なのだろう。ここでも、いくつもの詩や絵本や小説の一節が引用される。いのちづなのように。それで、読み手は母とともに気づかざるを得ない。完璧を求めるニコライは、どんなささやかな「くだらないもの」も、持ち得なかったのだと。
かなり特殊な小説であるし、かなり特殊な状況である。共感できる部分はほとんどない。読みはじめた当初のとまどいも、消えることはない。なのに読みやめることができない。どこにもいき着くことはないとわかっていても、先へ先へと急ぐように彼らの言葉を追いかけてしまう。
そうして、「自殺した息子と母親の対話」という、ある意味では閉じられた世界が、だんだん読み手に向けて開かれていくのを感じる。私たちも、その対話の場所に迎え入れられるのを感じる。私たちはそこで、生きていくことの残酷さとともに、その残酷さのなかで生きることも可能ないのちの不思議さを、身を以って知らされる。語り手のかなしみとニコライのかなしみと、私の個人的なかなしみが混ざり合う。混ざり合ってもかなしみは倍増しない。奇妙なことに、薄まったような錯覚すら抱く。彼らの対話の場所で、私は私のかなしみをなぐさめられるのだ。
イーユン・リーの小説の、すべての日本語訳をしている訳者によるあとがきを読み、この作家の、すさまじい孤独と強さに触れた気がして、胸打たれた。新作の日本での刊行を心の底から待っている。
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