書評
『ツボちゃんの話: 夫・坪内祐三』(新潮社)
矛盾だらけの実像、改めて向き合う
二〇二〇年一月に亡くなった坪内祐三さんと、私は親しかったわけではなく、著作についてもすごくくわしいわけではない。数回、対談や座談会でご一緒し、これもまた数回、飲み屋さんで会って言葉を交わしたことがある程度。そんな私の持つ坪内さん像は、人間離れした知識の持ち主、かつ大酒飲み、というものだ。本書は、坪内さんの配偶者である佐久間文子(あやこ)さんによる回想記である。穏やかに語りかけるような文章が、坪内祐三という人を多方面から浮かび上がらせる。
新聞社の文化部で記者をしていた著者は、一九九七年、坪内さんのはじめての著作についてのインタビューを申しこみ、はじめて出会う。三十代だった二人は「師匠と弟子みたいなところが」あって、ツボ先生が文(ぶん)ちゃんに古書会館や古書店のたのしみを教えていく。そうして約二年後、坪内さんが『靖国』を出版する直前に、二人はそれぞれの恋人・配偶者と別れて、ともに暮らしはじめる。
評論家と新聞記者の二人はおたがいにおもしろい本を教え合い、仕事のアイディアを出し合い、超高額な資料を、お金を出し合って買ったりしている。かと思うと、原稿を書きあぐねた坪内さんは深酒をして、ささいなことで烈火のごとく怒り出す。著者は坪内さんの著作と、それにたいするさまざまな周囲の反応について、客観的な分析をしている。同時に、ともに積み重ねた時間のなかでしかとらえられない考察もある。なぜあんなに坪内さんの知識が膨大だったのか、私は本書を読んでいて深く納得した。坪内さんのなかに蓄積された知識は、たんなる事象ではなくて、人であり時代であり、町であり世界だったのか。時間の流れとともにそれらは変容し続けていくから、蓄積されたそれらも膨張し続けていき、減じるということがない。本書には、坪内さんの仕事場の写真も掲載されている。膨大な数の書物関係が山積みされて要塞のようになっている。これでもまだ、坪内さんの頭のなかの何分の一かなのだろう。
ここに描かれるのは、けれど親密な時間のことばかりではない。親しいあいだがらなのにわかりあえないこと、親しいあいだがらだからこそぶつかり合うこと、深く理解できることとどうしようもなく理解できないことも、たんたんと描かれている。実際の言葉のやりとりばかりではなく、著者は、坪内さんの作品や幾多の文章とも再度向き合い、あらためて気づいたり、傷ついたり、呆然としたり、理解したり、している。著者の親しかった作家、須賀敦子さんのあるエッセイについての坪内さんの論考から、彼の宗教観を垣間見るくだりは、それぞれの読書や人間関係を含む体験から生まれるしずかな対話のようで、印象深い。
かんしゃく持ちで人見知り、怒りっぽいのにとことん親切、人間嫌いの人間おたく。著者の書くとおり、坪内さん個人はとても複雑で面倒な人だったのだろうと思う。そういう部分からこそ、坪内さんの作品は生まれている。
評論家としての、また、ひとりの人間としての坪内祐三の姿を、感傷的にならず美化することなく描き出した一冊であるが、夫婦、というより人と人との関わり合う姿の、自由さ多様さ、せつなさと唯一無二感について、私は思いを馳せずにはいられなかった。
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