書評
『踊りつかれて』(文藝春秋)
匿名の猛威、弱さ、他人への想像力
不倫報道をきっかけに、SNSで誹謗(ひぼう)中傷を受けたお笑い芸人がみずからいのちを絶つ。それを受け、「枯葉(かれは)」と名乗る人物がブログに「宣戦布告」を表明する。この布告文が小説の幕開けだ。ブログ主は、芸人に対しSNSで悪質な誹謗中傷を繰り返した人、それから三十年前、ある女性歌手をおとしめ、結果的に社会的に抹殺した写真週刊誌の関係者、総勢八十三人の個人情報をさらした。
ブログ主の正体はすぐに明かされる。読み手は、小説の語り手である弁護士の奏(かなで)とともに、「枯葉」こと瀬尾政夫と、自殺したお笑い芸人、天童ショージ、それから表舞台から姿を消した歌手、奥田美月の関係を、ある種の謎として追うことになる。
てっきりネット上での丁々発止が繰り広げられる「現代的」な小説なのかと思いきや、展開されるのは、インターネットもまだ存在しない八〇年代、ある天才歌手の登場と音楽業界の熱狂であり、その渦中を支え合って生きた歌手の美月とディレクターだった瀬尾の関係である。さらに七〇年代、美月の過去まで小説は遡(さかのぼ)る。
音楽をカセットテープに落として聞くアナログの時代から半世紀経ち、テクノロジーを急速に進化させてきた人間たちは、どのくらい進化したのか。インターネットの恩恵は計り知れないが、SNSの普及は人間の未熟さと俗悪さを、生々しくさらけ出した。
小説は、匿名を盾にした誹謗中傷、正義依存とも呼ぶべき幼稚な承認欲求にたいして、猛烈な怒りを秘めているが、同時に、人間の弱さ、もろさを一貫して描いてもいる。
SNSになじみのない人は、ネット上に書きこまれた誹謗中傷がどれほど人を追い詰めるか、理解できないかもしれない。けれども実際自分自身がその標的になってみれば、見えざる敵から放たれる大量の矢を、正気のままかわしきれるだろうか。
それは七〇年代に幼い美月を襲ったある災いと同じことだ。大人たちがこれほどかかわっていながら、なぜこんなことが起きるのか、なぜだれも逃げないのかとじれったく感じるが、しかし酷似した事件は現実に一度ならず起きている。人は、たやすく恐怖に支配され、心身をのっとられ、身動きが取れなくなる。
理不尽に降りかかる過酷さを乗り越えたとしても、人は強くならない。絶望をくぐり抜けても人は無敵にならない。だからこそ、理解者を見つけたとき、みずからの持つ使命を自覚できたとき、あるいは本物と思えるものに出合えたとき、人は弱さから解放される。そのうつくしい瞬間をも、小説は充分に見せる。
小説が描く人間の弱さは、愚かさにも通じる。被害者と加害者は、だから表裏一体なのだ。匿名という盾を持つ人間は、強くなるのではない、ただ愚かになるだけだ。私たち自身も他者も、同様に弱く、そして愚かだと、みずから自覚してはじめて、他者への想像力は生まれるのかもしれない。
この小説の連載媒体が、スキャンダル暴露を得意とする週刊誌であったことも、作者の意図するところだろう。週刊誌の暴露記事に、現実の私たちは何を思い、どう受け止めたのか。それを思い返すことで、私たち自身も、この小説の構成要素となっている。
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