書評
『百日と無限の夜』(集英社)
この世とあの世…胎児がのっとる世界
「切迫早産」というのは、日本語の使い方として少し奇異な感じがするということは、本書でも語られる。むしろ「早産切迫」のほうが伝わりやすいのではと思われる。要するに、「いまにも早産する恐れがある」という状態で、よく似た言葉に「切迫流産」があるが、どちらも切迫した状態を切り抜ける手段がないわけではない。語り手は妊娠七ケ月で「切迫早産」を告げられる。開くはずのない子宮口が開いてしまい、まだ外に出る準備の整っていない胎児を、うっかり産み落としてしまう危険があるのだ。
医師に告げられた入院期間は三ケ月、約百日間。胎児が出てこないように、妊婦はほぼ寝たきりの生活を強いられる。「母体胎児集中治療室」(MFICU)と名づけられた病室の個室で、妊婦はスマートフォンを手に検索する。胎児の体重が1000グラムを超えれば生存確率は上がる。これが妊娠28週。しかし、緊急入院した時点は26週で、いま外に出したら胎児は生きられない。だから、個人としての生活一切を犠牲にして、胎児を育む「子宮」機能をすべてに優先させなければならないのだ。
妊娠中は胎児に身体をのっとられたような気持ちになるとは、妊婦がよく口にする言葉ではあるが、これほどの、のっとられ方があるだろうか。
「切迫早産」を体験した作家の真に迫るリアルな体験記と思いきや、小説にはシームレスにするりと幻想が入り込んでくる。
胎児など捨てて自由になれとそそのかす猿、百日の間に自分の赤子を見つけなければ取り上げられてしまうと語る山姥(やまんば)たち、そして、ある日、妊婦=わたしの道案内に立つかのような女があらわれる。
人攫(ひとさら)いに遭って子を失った物狂いの女で、能「隅田川」の登場人物。小説中では「班女(はんじょ)」とされる。
人は生まれ落ちれば、あとは死へと向かうものだけれど、生まれる前はどこから来るのか。冥界のような混とんとした、生まれる前の世界を、女の「子宮」は抱えているのだろうか。
「子宮」があり、子を孕(はら)み、生まれた子のためには乳を出すという、女の身体そのものの不可思議さ、生命の得体(えたい)の知れなさに、読者は徹底的につきあうことになる。
神秘だとか母性だとかいった「神話」に取り込まれることを拒み、男性優位社会の中で否応(いやおう)なく押しつけられる役割には強く抵抗しつつ、しかし、人も動物であることの容赦なさに直面し、一度は同じ人間であった母子一体感にも翻弄(ほんろう)される。
途中から、すでに生まれた子どもの描写もさしはさまれるのだが、こちらも「神の内」である子どもの異界性を感じさせるに十分な存在だ。
小説の中の「わたし」は、ひとりに見えてひとりではない。子を孕(はら)むからではなくて、小説家があらゆる女を孕むからだ。
夜の天幕が引かれ、海と見まごう巨大な女の黒髪が囁(ささや)く。
――来るがいい。
その声は、時間も空間も超えたコロスのようだ。子を持つことのなかった女、子と生き別れた女、子を持ったことを後悔している女、身ごもった子を失いそうな女、子を守るために自らを犠牲にした女。そんな幾重にも響く声をまとわせながら、小説は、この世とあの世をつなぐ世界を紡いでいく。
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