日々生き延びるような…
精神医学の一分野に「精神病理学」がある。簡単に言えば「精神病の心理学」を取り扱う領域だ。生物学的研究が圧倒的に優位な精神医学にあって、人文科学の香り高い精神病理学は、しばしば「科学ではなく文学」などのそしりを受けてきた。著者はそんな精神病理学を継承し牽引(けんいん)する若手のトップランナーである。本書は共著や論文集をのぞけば、著者がひさびさに出版した単著だ。もともとは精神分析のラカン派の論客として知られる松本が、昨今ブーム的な盛り上がりを示している「ケア」に踏み込んだ点が注目される。
松本によれば、私たちは心についてあまりに垂直方向から考えてきた。例えばヘーゲルは精神が高次に上昇する垂直的なプロセスについて述べ、フロイトは「意識」の下にある「無意識」へと探求を進めた。かくして20世紀は、心を「高さ」ないし「深さ」との関係からとらえようとする垂直方向の時代となった。
ここに垂直と水平の均衡を欠いた「思い上がり」の病理を説いたビンスワンガー、垂直方向の歴史や父の名を特権化するラカンらの名が連ねられ、その起源として上昇と墜落の次元に絶対的な特権性を見たハイデガーの名が記される。かくして著者は、垂直方向の特権化を「ハイデガー主義」と命名する。
しかし、臨床的な意味での治癒は、むしろ水平方向において、つまり他者との横のつながりの回復などによって起こるのではないか。このことは、中井久夫が統合失調症患者がその急性期から「共人間的世界(身近な他者との関係)」の再構築において回復に向かうとしたことにも通ずる。ただし中井は、治療者が権威的ではないやり方で患者を導くこと、つまり「ちょっとした垂直性」の必要性に触れていた、と著者は指摘する。
そう、水平方向はケアにおいて重要な意味を持つが、そこには平準化(横並びに埋没させること)に陥る危険も潜んでいる。垂直方向の批判から水平方向の全面賛美に向かうのではなく、「斜め」を目指すこと。ここに、ラ・ボルド病院の実践において垂直と水平の次元を乗り越えようとしたガタリの「斜め横断性」の概念が重ねられる。
評者が本書で最も感銘を受けたのは、以上の議論の応用として上野千鶴子と信田さよ子の実践が再評価される第三章である。この章で垂直性と水平性は、死やトラウマのような「一度限り決定的に」なされる切断的な時間性と、「そのたびごとに」なされる反復という時間性の対比に重ねられる。上野や信田の実践は、従来の「一度限り~」の切断ではなく、そのたびごとに日々を生き延びるような回復の過程を重視していた。女性や依存症者をめぐる彼女たちの「運動」は、そうした時間論的なパラダイムシフトをはらんでいる。著者は信田の臨床を、「最良の反ハイデガー主義」として高く評価する。ここで「ちょっとした垂直性」は、例えば暴力から逃げるための介入のように、水平的関係を維持するために必要とされるのだ。
垂直か水平かを問い続ける「斜め」のダイナミズム。一見、シンプルにも見えるこの図式は、切断と過程、個と集団、分析と共感といった変奏を通じて、臨床を俯瞰(ふかん)する上で有用な視点をもたらすであろう。