社会に「空き地」をつくる大切さ
生きるために必要で、必要であるがゆえにあたりまえのこととして日常に組み込まれてきたために、つよく意識されなかった手わざ。専門家と称する人にお金を出してなにかをやってもらうのではなく、身近なだれかが持っている兼業的な能力を信頼し、顔を知っている人たちのもうひとつの「面」を使わせてもらう、融通の余力がかつてはあった。いつか、なにかに役立つときがくる。そういう感覚を人々はだいじにしていたし、職人たちは自分の仕事を成り立たせてくれる仲間との無言の連携を大切にして、互いのために手を抜かなかった。利便性や効率よりも、貧しさと不便さのなかの豊かさを実践していた。
しかしいま、そういう日々の営みが分断され、分業化されて、個々の仕事が見えにくくなっている。不特定多数への発信を可能にした通信機器の進化は、同時に一対一のつながりを外に持ち出し、相手以外の存在に目を向けなくさせることで、逆に周囲から人を孤立させることにもなった。このままでいいはずはない。戦争や災害、人為による大事故が生じたら、生活を生活たらしめていたものが一瞬のうちに断ち切られる。そうなるともう、ひとりではなにもできなくなる。では、失った手のわざと協働の術をどのように回復したらいいのか。
現場の感覚を重視すること。要求を待ってのサービスや消費をゼロにして「生存の《萎縮》」から私たちを解き放つために、ブリコラージュという日曜大工的な柔軟さを生に取り入れ、その場でなにができるかを考えて、とにかく手を動かすのだ。
本書のつくりが、そのための方途を示してくれている。構成は、たしかにある。生活資材のデザインと発想。これからの暮らしと生業に必要な技法。同時代の芸術。そして「世界のその根元のかたちを探究してきた思想家たちの思索の術(アート)」。
ただし、序論・本論・結論といった、堅苦しい形式は取られていない。あえて統一感を削いだ、よい意味での寄せ集め的な方法への信頼こそが、「生きながらえる術」の根幹であり、未来の「床面積を拡げる」ための手段なのだ。
わかりやすいのは、具体的なモノに即した知恵が語られる第一部だろうか。十二年間モデルチェンジしなかったスバル360に触れて、「最初にやった人が、最後までやった人、もっとも深く突きつめた人だというのはほんとうだとおもう」と著者は言う。あるいは、すべてにおいて速度と効率の求められた明治時代に、「できるだけ遅く」燃える蚊取り線香を完成させた男の「偏屈」さと「一途」さの美を指摘する。
この麗しい偏りが、<大きな否定>のかわりに<小さな肯定>を積みあげ、現場での意思疎通を重視した横のつながりを再構築するための力になる。「現場に臨むとは、感覚を総動員してそこに身を晒すということ」なのだ。
杓子定規にならず、マニュアルを信奉せず、複雑な網の目を描く社会のなかに<空き地>をつくり、風の通る<すきま>を見出すこと。話せと言われる場であえて口を閉ざし、黙れと言われる場では逆に「こえの軌跡」が見えるように話すこと。「方法的に反方法的であろうとする、無方法であろうとする」姿勢を保つにも、たがいの信頼と偏屈を許す心の<空き地>が必要なのである。
簡単な作業ではない。時間もかかる。しかしいま、この術を粘りづよく作り直していかないかぎり、世にはびこる<大きな肯定>の圧力と罠から、正しく逃れることはできないだろう。