感覚的な表象にひそむ可逆的な関係性
「使う」という言葉は日常生活のなかでよく用いられ、ふだん誰もが何気なく口にしている。鷲田清一はこのたった一つの単語から魔法のように思考連鎖のスペクトルを現出させ、感覚的な表象にひそむ可逆的な関係性について哲学的な定位を試みようとした。「使う」とはいわず、「つかふ」と表記したのは、言語形態の指示性の落とし穴を避けるための布置である。古語ふうの表記なら、「使ふ」のみならず、「仕ふ」「遣ふ」などの語形も含まれており、拡散する意味の波動を見極めることができる。
身近なことから語り起こし、いつの間にか読者を哲学的な思索の森に導いてしまう――鷲田清一の得意芸だが、本書でもその本領が遺憾なく発揮されている。育児中のおんぶや抱っこ、友人、知人ないし通行人への手助け、福祉や介護の現場での世話など、わたしたちの身の回りには人を「使う」/人に「使われる」場面は少なくない。鷲田清一がそこで見たのは、「使う」と「使われる」のあいだに生起した位相の交わりであり、関係性のずれや反転である。
使用の表徴といえば、人間同士よりも人間とモノとのかかわり方の遠近法において顕在化する。道具、機械、家畜、資源など、人間が利用する対象は遍在しているが、人を使い、人に使われるというとき、比喩的な想像力がたぶんに働いているのに対し、モノを利用したとき、文字通りモノを人間の意向に添わせることである。
他者との関係は愛する/愛される、助ける/助けられる、暴力を振るう/振るわれるなど、さまざまな形で絡み合ったとき、感情も連動して揺れ動く。それに対し、モノの使用は無機質のようにも見える。しかし、概念の硬い殻が柔らかい感性の拳に握りつぶされたとき、哲学的な思考の水面に浮かんできたのは、モノの使用における対象との親和性である。人間が垂直的に道具を制御するのではなく、道具の使用を習熟しているうちに、道具と一体になり、「使う」側と「使われる」側とのあいだに新たな関係性が生まれてくる。
近代文明は人間が自然を征服し、ほしいままに利用する歴史といわれているが、それはしょせん進歩主義者の思い込みに過ぎない。道具や家畜や機械の使用はたんに身体の拡張だけではなく、そのプロセスは身体が道具によって再編成される過程でもある。
道具や機械の使用は身体的能力の「外化」だが、必ずしも無条件な身体の自由を意味しない。自然に対する人間の「勝利」は、同時に身体の退化をもたらすことでもある。鷲田清一が示唆したのは人間と道具とのあいだの、そのような弁証法的な関係である。転用や借用など使用をめぐる多様な形態を探ることで、人間が利用するモノにからめ取られる様子はくっきりと炙り出されている。
「つかふ」という概念を突き詰めていくと、必然的に所有論の壁にたどり着く。民法に規定される「所有権」やヘーゲルなどの議論を一本の補助線として引くと、「所有する」者と「所有される」モノとのあいだにつねに位置が反転する契機がひそんでいることがわかる。そもそも「所有」は交換可能を前提にしており、本質的に自己否定への通路が開かれていることが、緻密で論理的な推敲によって解き明かされている。