文学研究のあるべき姿を示唆する人物論
坪内逍遙は小説家、劇作家、翻訳家や評論家として知られているが、「英文学者」としてまともに論じられてこなかった。その空白が名著『英文学者 夏目漱石』の著者によって埋められたのは喜ばしい。坪内逍遙の英文学に残した功績に対する公平、公正な評価もさることながら、「英文学者」という視点を通して、坪内逍遙の仕事にどのような特色があり、何が優れているかが明快に解き明かされた。坪内逍遙の学風を一言でいうならば、西洋文学の理論に振り回されず、日本文芸の流れに立脚した独自の探索が挙げられる。英文学の知識を思考の触媒としながらも、自分のよって立つところの文化や精神性を忘れない。『小説神髄』にすでに端緒が現れ、生涯の仕事にその姿勢が貫き通されている。英文学者としては稀有な存在だが、なぜそれが可能なのかは、著者一流のレトリックで語られている。
美濃国生まれの坪内逍遙は自分が「田舎育ち」だ、と口癖のように言っていた。謙遜をよそおう自負だが、著者はその自己定義から、学者形成を方向付ける理由を見いだした。
「田舎育ち」だからこそ論理的思考と緻密な計画性にもとづいて行動するのではなく、手探りしながら、さまざまなことに手を出し、何でもかんでも取り込もうとした。非凡な蛮勇ぶりは文明開化期における西洋文芸の受容に大いに役立った。
何よりも、文化の他者と相対するとき、「田舎育ち」は二重の相対化を可能にした。じっさい、「田舎育ち」が見た東京という経験は、東京から西洋に向ける眼差しの屈折を観察するのに役立った。
英文学にかぎらず、欧米研究といえば都会的な洗練さを連想させ、学界には自他とも西洋かぶれと認める者も少なくない。その中にあって、坪内逍遙は恰好づけるようなことは一切しない。本人も自嘲気味に言っているように、「俗さ」を地で行くような仕事をしていた。著者はその「俗」的な姿勢こそ坪内逍遙の強みだと見ている。
夏目漱石との何気ない比較は論述の布置として機知に富む。英文学をどう研究するか、その方法論がまだ確立されていなかった時代だから、東京帝大英文科で勉強し、英国にも留学した漱石は英文学の内面化こそ自分に与えられた使命だと思っていたであろう。しかし、ロンドン滞在中にそれが逆立ちしても到底できないことを思い知らされてのたうち回った。「英文学に欺かれたるが如き不安の念」が生じたのもそのためである。
しかし、坪内逍遙は英文学を内面化しようなど、毛頭考えなかった。夏目漱石が抱いた不安は、坪内逍遙において作品との対話を通して蒸発させたのみならず、その不安を反発力に変えて新たな飛躍を遂げた。
坪内逍遙は英文学者にはなったものの、もとはといえば東京帝大の政治学科卒である。そうした気軽さもあって、英文学という高峰の稜線をいつも遠目に眺めていた。翻訳、評論などほとんど無自覚の未踏地開拓だったが、高踏的な体得とは無縁の「俗」的な姿勢だからこそ英文学をもう一つの平面において捉えることができた。
明治期の西洋受容において、大真面目な秀才型人物と「田舎育ち」の学者は異なる反応を示していた。前者は欧米の文学・思想を新時代の頭で受け止め、その思考の方向に遮二無二(しゃにむに)前進すべく努めていた。それはそれで明治期にふさわしい姿勢の一つであるが、坪内逍遙が違う道を歩んだのは、青少年期の読書経験と関係する、と著者は考える。
坪内逍遙は少年時代「大惣」という貸本屋に入りびたり、草双紙、稗史(はいし)、読本(よみほん)のたぐいを読みふけっていた。江戸後期の俗文学について本人はくだらないと言ってはいたが、戯作(げさく)的文学を心のどこかで捨てきれないでいた。そうした読書経験は坪内逍遙の知識構造と感性を大きく左右したのみならず、後に英文学の作品に対する直観や、その批評精神にも濃い影を落とした。
坪内逍遙の対照として挙げられたのは二葉亭四迷と森鷗外である。二葉亭は西洋の「小説」の特質を知ろうと懸命に探究しているうちに、ロシアの批評家ベリンスキーの理論にたどりつき、その説を踏まえて「小説総論」を書いた。
森鷗外と坪内逍遙のあいだで交わされた「没理想論争」において、前者は理路整然とした論理で後者を論破したが、本人も明かしたように議論の拠り所はドイツ哲学者E・V・ハルトマンの美学理論であった。
それに対し、坪内逍遙は最新の西洋理論にさほど興味はなかった。「田舎育ち」の坪内逍遙が目指したのは「和漢洋三文学の調和」であって、西洋文学への一辺倒ではない。最新の批評理論を振りかざすよりも、客観性を重んじる評注などの仕事に英文学者としての存在意義を見いだした。日本の英米文学の学界において、いまなお批評理論信奉が幅を利かせていることを考えると、坪内逍遙に対する評価は、たんなる人物論に止まらず、英文学研究はどうあるべきかについての提言であり、次の世代に託された「遺言」ともいえよう。