書評
『父 逍遙の背中』(中央公論社)
坪内逍遥の素顔
実父は森鷗外「百物語」のモデルとなり、家産を写真道楽に傾けた鹿島清兵衛。実母が名妓ぽん太。それだけでも興味深いのに、『父逍遥の背中』(中央公論社)の題が示すように、著者飯塚くにさんは坪内逍遥に望まれて養女となり日本舞踊革新の実践者として鍛えられる。所は新宿余丁町。実家とまるで違う家風の坪内家での暮らし、とりわけ逍遥その人の日常と風格が印象的である。
居留守も使えないほど正直で、袖裏がはみ出た着物を着て雑誌に載るほど無頓着で、人に仇名をつけるのが大好きだった逍遥。朝、生玉子を食べると、「きょうはどれにやろうかな」と庭の寒あやめの根かたに玉子の殻をそっとふせてやるようなやさしい養父であった。
妻センが根津遊郭の遊女であり、彼女を妻に迎えた逍遥が口さがない風評と一生たたかい、添いとげたことは知られている。その内実が著者の語るささやかなエピソードでふくらんでゆく。気に入った店には必ずセンを伴い味を覚えさせた。センの三越の買い物へはついていってその間、丸善で洋書を見ていた。トーストだけはセンの分まで焼いた。自分は煙草をやめても、二人ともやめるとさみしいから「お前だけはすいなさい」と逍遥はいった。センの子宮筋腫がわかると、体をいたわるため寝室を別にし、しかし生涯妻にかわる女性をおかなかった。明治の男としては類まれなフェミニストであり、読んでうらやましくなる。
それにセンは応え、きれい好きで地味で気丈で、前身を毛ほども感じさせなかった。「散歩に行こうか」と夫が誘えば即座に「ハイ」と立ち上がり、ボヤを出しても夫の仕事の邪魔をしないよう、気どられぬうちにおさめた。「センの優しさは生まれつき備わっていた性格だったような気がします」
奇をてらわない素直な語り口で、ほほえましくも稀有な夫婦が浮かび上がる。驕慢のイメージで語られやすい松井須磨子も、銘仙を着て鯛焼きをかじりながら芸に打ち込んだ姿を、公平に書きとめている。貴重な証言である。
【単行本】
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする










































