書評
『旅の王様』(マガジンハウス)
出発したくなる!「人間好き」の紀行
旅に出る前に旅の本を読む。また楽しからずや。といっても、巷(ちまた)にあふれているガイドや旅行記には、買ってめくった途端、旅への意欲が失せるようなのが多い(なぜだろう)。本書は旅への想いをかきたてる珍しい本である。
「信じられないことだが、わたしは月の光の強さのおかげで目が醒めたのだ。こんなことが、これからの人生でふたたび起きることがあるだろうか」。すぐさま、パレルモからナポリへの寝台列車に乗り込みたくなるではないか。
魅惑的なのは徹底的な省筆にあるだろう。さらりと一行に書きつけた旅の感慨。とともに旅の本質が上質な文章で語られる。「その場所にずっと住んでいるかぎり、人はいかなる意味でも物語の主人公となることができない」「今、この風景を見ている自分は、いずれ近い将来に塵となり、消滅することであろう」
映画、文学、アジアなど多分野にわたり、すぐれて「批評的」な活動をしている著者の、自由なスタンスは、この闊達(かったつ)な旅のしかたに由来するのかもしれない。
“旅のアマチュア”である。メキシコの海辺で大事な眼鏡を波にさらわれ、ソ連崩壊直前のグルジアでパスポート以下一切をとられ、と失敗には事欠かない。そんな災難の対処法や待合室の退屈、旅先で受けた親切など“取るに足りない”ことを楽しげに語っていく。
二十年間、パスポートも持たず、町を徘徊(はいかい)してきた私にはちょっとうらやましすぎる。もう、ニューヨークでジョン・ケージに話しかけることもできないし、香港の九龍城も見そこなった。旅の一回性に切ない思いをしながら、私は著者とともにトスカーナの温泉をめぐり、スターフェリーから摩天楼を眺めている。
共感するのは、香港やナポリ、マンハッタン、「要するに人間の指紋がいたるところに貼りついている」場所が好きなところ。外国は背景にすぎず現地人とは仲良くなれない「自分さがし」紀行文に飽きていた私は、他国のことばをなんとか聞こうとする、この「人間好き」がむしろ新鮮に感じられた。
朝日新聞 1999年3月21日
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