聞くから「聴ける」へ「静寂」が与えた体験
私の祖父は日中戦争に行き、大砲の音がもとで還暦をすぎてから聴力を失った。晩年の祖父を介護した私には、本書は思い当たることの多い、切実な本である。著者は作家で、実業家の妻であり、四人の子供がいたが、スキー事故から徐々に聴力を失う。「わたしをとりまく世界がしんと静まりかえっていること、後ろから近づくあなたの足音も、遠くから呼びかけるあなたの声も、わたしには聞こえないこと、そんなことはどうしたらわかってもらえるだろう? わたしを包みこむ静寂は目に見えない」
鳥の声、西風のため息、屋根を打つ雨の音が突然失われ、つらい日がつづく。モノとの関係、人との関係が一変する。発語でき、読唇術に長(た)けているゆえに障害があることを理解されない(中途失聴者の発語がどのように変化するのかはもう少し知りたかった)。
しかし果敢に失聴という冒険に乗り出す。受け身の〈ヒアリング〉から、幻の音に耳を傾ける〈リスニング〉へ。この〈聴く〉実験を積み重ねて、著者は稲妻に雷鳴のとどろきを、ピアニストの指にショパンのワルツを、〈聴ける〉ようになる。
人生も一変した。社交に明け暮れる実業家の妻をやめ、補聴器をつけて海辺に本屋を開く。耳を立てることで何でも教えてくれる聴導犬シーナとの友情。そして「霧笛は……開放弦Gの音に似てなくもない」と笑う新しいパートナーとのロングアイランドのボートハウスでの暮らし。うらやましくなる。
生まれつき意欲的なのだろう。本書は空中の振動を注意深く聴くコウモリや、おしゃべりする植物や歌う魚たち、十八世紀の「ささやき管」という懐かしい補聴器まで、音とコミュニケーションに関するたくさんの知識がつまっている。
同時に失聴体験は、この世がいかに余分な会話、不必要な音楽、騒音に満ちているかを教えてくれた。補聴器をオフにすれば、私は完璧な無音(しじま)が選択できる、という言葉は文明批評にもなっている。
内省と実践がからみあった魅力的な自叙伝。障害者向き図書館をつくり、補聴器をピンクに塗って目立たせる。この明るさとプライドに目をみはった。