書評
『グレアム・グリーン全集〈13〉二十一の短篇 所収「無邪気」』(早川書房)
坂道の記憶
O-157が猛威をふるった。この騒ぎでひとつ意外なことがわかった。学校給食というのが一大産業だということだ。従事する者十万人。わが国の文部行政と密接に絡む。学習塾産業と学校給食産業はそのうちアメリカから規制緩和・市場開放要求のターゲットになるかもしれない(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1996年頃)。僕は一九四五年末の生まれで、紀伊半島の海ぞいの村の小学校へ通ったが、すでに完璧な給食があった。割と大きめのコッペパン、米軍支給の脱脂粉乳、ヒジキの煮付けと豚肉の粉乳煮込み、そんなメニューだった。コッペパンは隣町のパン屋で焼かれ配達されるが、学校は丘の上にあって配達車は坂の下までしかこない。僕たちはグループを組み、リヤカーにパンを積んで上まで運ぶ。これがたのしかった。しかし、一度僕は何かの理由で当番のとき、このパン運びに参加しなかった。
この日からずっと仲好しだったグループから完全に仲間はずれにされた。たった一回、パン運びに参加しなかっただけで? そんなはずはない。きっと他に理由があるはずだ。しかし、まったく心当たりはなかった。あれから四十年近くたった。いまでは僕はそれを坂道のせいにしている。坂道というのは何かなのだ。あれで僕は変わった。
坂道というと思い出す短篇に、グレアム・グリーンの「無邪気」がある。
「私」はバーで知りあったローラという娼婦に、どこか田舎に連れてってとせがまれ、三十年ぶりで子供時代を過ごした何の変哲もない、わびしい田舎町にやってくる。
どうしてこんな町を選んだの? そうけなされて、「私」はここが自分の故郷なのだと言い出せない。連れてきたことを後悔しはじめる。しかし、田舎町は「私」にやがて様々な思い出を甦らせ、まだ罪の汚れのない無邪気な少年時代が奏でる音楽に聞き入るように散歩する。
「私」は坂の下で立ち止まる。心の奥底で何かが動く。子供たちが歓声をあげながらおりてくる。無邪気そうな彼らをみて、また「私」はローラを連れてきたことを後悔する。彼女の存在が自分の少年時代と何と不調和なことか。
坂の途中にダンスを教える家があって、子供たちはレッスンの帰りだった。三十年前もそれはあった。「私」はレッスンに通っていた一人の少女を思い出す。私は七歳で、彼女は八歳。「私」は彼女を愛していた。子供の愛情はとてつもなく苦しく絶望的だ。結婚という形で愛を充足させることができない。
ダンスの先生の家の門に一本の木があった。「私」はその木の穴に彼女への精一杯の無邪気な愛をこめた手紙を書き、入れた。「私」は坂道をのぼりながら突然そのことを思い出す。
木はあった。穴もある。指を入れる。あのときの紙片が出てきた! 「私」はそれを開け、マッチの火でみる。露骨な男女の姿態を描いた猥画(わいが)だった。「私」の頭文字が記されている。これは「私」が描いたのに違いない。
その夜、「私」はローラとベッドを共にしながらこう考える。結局のところ、ローラがそれほどこの土地にふさわしくなくはないわけだ、と。
ローラが背を向けて寝入る。と、「私」にはあの絵の真の意味がわかりはじめる。あの絵を描きながら、自分はきっと独特の美しい意味を持ったあるものを描いていると信じていたのだ。あれを猥褻だと思った心こそ汚れていたのだ、と。
人は、ときに坂の途中で立ち止まり、途方に暮れることがある。
【新訳】「無垢なるもの」
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