読書日記

張競「私の読書日記」週刊文春2005年3月3日号『アメリカでいちばん美しい人マリリン・モンローの文化史』『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』『陳真 戦争と平和の旅路』

  • 2017/08/19

週刊文春「私の読書日記」

二月十五日

去る二月十二日、主要新聞各紙はアメリカの劇作家アーサー・ミラーの死去(二〇〇五年二月十日)を伝えた。『セールスマンの死』などの名作を残した現代演劇の大家だが、彼がメディアで話題になった理由の一つに、マリリン・モンローとの結婚が挙げられる、実際、AP通信をはじめ、ほとんどの新聞社は短い記事のなかでそのことに触れている。

二十世紀のアメリカ文化において、マリリン・モンローはなぜ圧倒的な存在感を持っていたのか。亀井俊介『アメリカでいちばん美しい人マリリン・モンローの文化史』(岩波書店)は面白い視点からその問題に迫った。

アメリカでいちばん美しい人―マリリン・モンローの文化史 / 亀井 俊介
アメリカでいちばん美しい人―マリリン・モンローの文化史
  • 著者:亀井 俊介
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(214ページ)
  • 発売日:2004-12-16
  • ISBN:400022025X
内容紹介:
生前は「セックス・シンボル」として、スキャンダラスな生き方ばかり強調されたマリリンモンローだが、死後その評価は高まり続け、今では20世紀の「女神」とまで称えられている。この現象はどう考えたらよいのか?わずか36歳で亡くなったモンローの生涯を追跡し、肉体の美に加えて精神の美を発揮するようになっていった有様を描き出すとともに、彼女を素材として作られたアメリカや日本の文学・芸術作品などを読み解き、その背景となった社会の動きとあわせて考察する。マリリン・モンローをめぐる文化史の試み。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

モンローが死去して、今年ですでに四十年以上が経過した。にもかかわらず、伝記や写真集が引き続き出版され、彼女を題材にした小説も多く書かれた。また、絵に画かれ、ポップアートにも取り上げられている。劇映画、ドキュメンタリーやテレビドラマとなると、その量は数え切れないほどであろう。一人の女優をめぐって、これほどの作品が創作されたのは珍しい。ところが、そうした文化現象について、全面的に検討されたことはほとんどなかった。本書によって、ようやくその全容が明らかになった。

マリリン・モンローについては、これまでいくつかの紋切り型のイメージがある、「セックス・シンボル」と見なされるか、さもなければハリウッドに代表されるアメリカ商業主義の犠牲者と目される。

著者は長年の文献収集と緻密な資料の読みにもとついて、まったく違った結論を出した。時代が変わっても、マリリン・モンローの魅力がなくならないのは、その美しさに多重な含意があるからだ。

本来、彼女はとびっきりの美形ではない。グラマーな肉体なら、ほかにも乳房やお尻の大きい女優はいくらでもいた。にもかかわらず、モンローだけが長らく人々に愛され続けてきた。それは彼女の美しいイメージのなかに、ピューリタニズムにも通じる無垢さやデモクラシーや「愛」といった、アメリカの伝統的な価値観の中心をなすものが包み込まれているからだ。切れ味のよい分析と、時代の雰囲気や文化の深層を見抜く洞察力の鋭さには舌を巻くばかりだ。

面白いことに、マリリン・モンローの大衆的受容、あるいはその美的イメージの拡大再生産の過程を時系列に追っていくと、アメリカ文化史の流れが手に取るようにはっきりと見えてきた。

モンローがデビューし、映画界で輝かしく活躍した時期は、ちょうどアメリカが戦後の大転換を遂げた時代と重なる。一九五〇年代は権威や秩序を重んじる「大人の時代」であった。しかし、一九六〇年代になると、若者たちは既存の価値体系に異議を申し立て、重苦しい大人の権威に反逆し始めた。マリリン・モンローはそのような変化を直感し、時代の動きを先取りした。彼女がアメリカ大衆文化の顔になったのは、歴史の偶然ではない、れっきとした文化史的な理由があるのだ。そのあたりの論の展開は学問的に面白いだけでなく、読み物としても一級品である。

二月二十日

かりにマリリン・モンローが生きていたら、その後半生は果たしてどうなったのか。『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』(日本経済新聞社)を読みながら、ふとそんなことを思った。

「李香蘭」を生きて  / 山口 淑子
「李香蘭」を生きて
  • 著者:山口 淑子
  • 出版社:日本経済新聞社
  • 装丁:単行本(241ページ)
  • ISBN:4532164923

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むろん、李香蘭とマリリン・モンローは生い立ちが違うし、生きた時代も同じではない。同じ運命のいたずらとはいっても、二人の身に起きたことはあまりにも異なる。李香蘭は未成年のうちに政治に利用されたのであって、本人が女優を志願したわけではない。気が付いたら、すでに国家対立の渦中に深く巻き込まれていた。苛酷な現実の前で、一人の女優はあまりにも無力である。その立場にいたからこそ、戦争の愚かさをよく理解した。だが、彼女の悲痛な叫びは人々の耳には届きそうもない。それどころか、利用されたあげく、生け蟄にされそうになる。

李香蘭については本人の共著も含めて、これまで複数の書物が刊行されていた。しかし、著者の心情がもっともよく伝わってくるのは、やはりこの本であろう。一見、淡々と書かれているようだが、著者の気持ちが率直に綴られている分、迫力はまったく違う。

むろん、回想録だからといって、過去の事実を百%再現したとは限らないかもしれない。紙幅の制限がある上、思い出したくないことや、心にとめておきたいこと、あるいは無意識に消された記憶もあったのであろう。しかし、人生を左右するような決定的な場面は生涯忘れられないし、とりわけそのような場面を経験したときの気持ちには偽りはない。

映画人はともかくとして、梅原龍三郎、北大路魯山人などが出てくるのには驚いた。上等兵になった田村泰次郎の話は面白い。『肉体の門』の作家にこんな戦争体験があったとは知らなかった。

「李香蘭」もついに八十歳を越えた。人生を諦観できる齢になっても、なお「自伝の決定版」の執筆にこだわったのはなぜか。浮世の儚い名利のためではなく、世の中にどうしても伝えなければならないことがあるからであろう。戦争を二度とくり返してはならない、そんな切実な願いが行間につよく滲み出ている。人間は現在あるものを大事にしない習性がある。それを失って初めてその大切さがわかる。平和がいかに尊いか、「李香蘭」を生きてきたからこそ、身にしみて感じたのであろう。次の世代に敵意が満ちた世界を手渡してはならない、著者は必死にそう訴えているような気がした。

二月二十七日

野田宣雄『陳真 戦争と平和の旅路』(岩波書店)の表紙の写真を見て、あっと驚いた。NHK中国語講座でお馴染みの陳真といえば、知っている人も少なくないであろう。私も電波を介して、その美しい声を聞いたことがある。興味本位で手にしたが、その衝撃的な内容に惹きつけられ、一気に読んでしまった、

陳真―戦争と平和の旅路 / 野田 正彰
陳真―戦争と平和の旅路
  • 著者:野田 正彰
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(233ページ)
  • 発売日:2004-12-17
  • ISBN:4000238280

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陳真は一九三三年六月、東京の荻窪に生まれた。戦時中の厳しい時代を経て、十四歳のときに家族とともに、父親の故郷台湾に戻った。

台湾大学教授に迎えられた陳文彬は翌年、二・二八事件との関連で逮捕された。連座を恐れて、残った家族は苦難の逃避行を始める。一年後、香港に脱出し、筆舌を尽くしがたい苦しみを堪え忍び、一九四九年八月にやっと天津にたどりついた。北京放送局に未成年で就職したが、闘病生活の後、次から次へと起きた政治運動の波に巻き込まれていく。

本書はインタビューにもとついて書かれている。著者はさすがに陳真の長年の友人だけあって、本人の語ったことを見事に再現し、その気持ちも正確に伝えている。厚い友情と固い信頼関係があったからこそできたのであろう。

もっとも執筆の動機は個人の友情を越えたところにある。陳真のように、一九四九年以降、大陸に戻った人たちは「帰国華僑」と呼ばれている。一種の「中間的」な立場に置かれていたから、当事者でありながら、第三者の立場で観察することもできた。とりわけ、権力中心に近い放送局にいたため、本質を見抜く機会も多い。陳真の半生は、この半世紀以来の中国近代史を象徴しているとも言える。彼女の伝記は個人の物語に止まらず、貴重な時代の証言でもある。

陳真との往来を通して、著者の中国を見る目はより確かなものになった。文化大革命のような愚行はもはや二度と起きないだろう、という陳真の感想に対し、著者が発した言葉は忘れられない。

「私は、まったく同じことは起こらないが、世代が変わり、体験が忘れられると、また似たような時代を呼び込むかもしれない、と思う。個々の人が自分の精神を見つめることなく、上ずった観念によって、傍らに生きている人の感情を見下すとき」と。胸を衝かれたような、本質をついたコメントである。

悲しいことに、年が明けてまもなく、陳真が一月四日、北京で死去との計報が届いた。ご冥福を祈る。(『週刊文春』3月3日号)

【この読書日記が収録されている書籍】
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010 / 張 競
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010
  • 著者:張 競
  • 出版社:ピラールプレス
  • 装丁:単行本(408ページ)
  • 発売日:2011-05-28
  • ISBN:4861940249
内容紹介:
読み巧者の中国人比較文学者が、13年の間に書いた書評を集大成。中国関係の本はもとより、さまざまな分野の本を紹介・批評した、世界をもっと広げるための"知"の読書案内。

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初出メディア

週刊文春

週刊文春 2005年3月3日

昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

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