「英国」小説研究者の最新の知見と思索の実りを届けてくれる圧巻の論集
文学を「世紀」で区切ることはできるだろうか。「英国」二十世紀小説に関していえば、可能なのだと思う。二十世紀が始まってきっかり十年、前世代――ヴィクトリア朝文学、とりわけ直前のエドワード朝文学――との鮮烈な転換的訣別が起き、そのムーヴメント自体が、識字率向上に伴うローアート/大衆文学の勃興へのカウンターカルチャーと相まって、モダニズム文学を形成していったからだ。そして、ポストモダン文学は次第に輪郭を失いながら、一九九〇年代まで続いたといえる。本書でいう「英国」とは、アイルランドと、カナダ、インド、南ア、ナイジェリアなどの英国連邦国(≒旧ブッカー賞対象国)を含む。この広大無辺ともいえる地平をゆくには、確かな地図が必要だ。本書の冒頭五十ページに及ぶ高橋和久による概論の、なんと網羅的でありがたいことか。
さて、本書の目次に並びに並んだり、「英国」小説を貫き見る十八本の作品論。ジェイムズ「黄金の盃」(垂井泰子)から、コンラッド「シークレット・エージェント」(丹治愛)、フォースター「眺めのいい部屋」(浦野郁)、ロレンス「息子と恋人」(倉田賢一)、フォード・マドックス・フォード「善き兵士」(川本玲子)、C・マンスフィールド「幸福」(侘美真理)、ジョイス「ユリシーズ」(桃尾美佳)、ウルフ「幕間」(片山亜紀)、ウォー「ブライズヘッドふたたび」(長島佐恵子)、オーウェル「一九八四年」(河野真太郎)、ドラブル「碾臼」(川崎明子)、ファウルズ「フランス軍中尉の女」(大久保護)、ルシュディ「真夜中の子どもたち」(泰邦生)、アラスター・グレイ「ラナーク」(猪熊恵子)、レッシング「夕映えの道――よき隣人の日記」(迫桂)、アンジェラ・カーター「夜ごとのサーカス」(吉野由紀)、クッツェー「鉄の時代」(小山太一)、イシグロ「充たされざる者」(武田将明)まで。
本欄では、全論にふれるには、紙幅及び筆者の力があまりに足りない。そこで苦肉の策として、「失敗」と「未遂」というアイデアを頼りに、この多彩な論集の今日的な独創性を浮彫りにできたらと思う。
「歩くこと、階級、自由」と題された河野真太郎のオーウェル『一九八四年』論は、氏の先行書『〈田舎と都会〉の系譜学』に連なる論考だ。「愛国心」と「全体主義的なナショナリズム」を区別していたオーウェルの同作において、役人ウィンストンは「歩く」という文化を「奪用しかえす」ことで後者に対抗したという。自由なすずろ歩き、それは二十世紀前半の英国で、上層中産階級以上に特権化された知的文化だった。たとえば、『ダロウェイ夫人』に出てくる貧しいセプティマスなども、歩くことの美学から排除されている。
オーウェルの『葉蘭を窓辺に飾れ』のアイロニーは、主人公の「ゴードンが街や田舎を歩く、正確には歩くのに失敗する場面にいかんなく発揮される」という。同作で「自由を与える徒歩」は挫けるが、『一九八四年』ではそれが束の間とはいえ可能になるのはなぜか? それは、下層中産階級ではなく、労働者階級を対置させたからだと、河野氏は説く。ウィンストンの見かけた洗濯女が、「党」の作った無機的な歌に魂をこめて、支配的な文化を「奪用」したところに、ウィンストンが歩く文化を「奪用」することで、両者の距離が打ち消される、と。ここに、ひとときの解放が生まれる。
武田将明のイシグロ『充たされざる者』論は、「疑似古典主義の詩学」と題され、悲劇の意図的不成立の書法を分析する。mock classicism(擬似古典主義)はmock heroic(擬似英雄詩)をmockした武田氏の造語である。後者は文体をパロディにするが、前者は「アリストテレス的なプロット作成上の規則」――罪、認識、転換、すなわち過ちがあり、それに気づき、失墜するという約束ごと――を転覆するという。『遠い山なみの光』『浮世の画家』『日の名残り』など幾つものイシグロ作品において、この古典悲劇の則(のり)が挫かれる。罪の認識や告白があっても、ヒロイックな転落などの悲劇は未遂に終わるのだ。
『充たされざる者』は、町を訪れた音楽家が演奏できないまま去っていくという「だけ」の筋書ながら、難解な異色作とされる。しかし武田氏は、悲喜劇的な現代の状況そのものを、リアリズムの手法をずらしながら描き、作者の世界観を表出させたメタ・イシグロ文学でもあり、最も読みやすい作品として捉え直す。「市民の精神(soul)を浄化するギリシャ悲劇のような芸術を現代に復活させることを目指して失敗する物語」として読み、人物や出来事が「固有性」を失って個が交換可能になり、浄化(カタルシス)を経験した振りをするしかない、現代社会の虚ろさを洞察する。イシグロが「本物の不在を描き続けた」という指摘など、目から鱗が落ちまくった。
「第四挿話と腎臓を食らう男」と題された桃尾美佳のジョイス『ユリシーズ』論は逆に、難解で鳴る同作で最も解りやすいとされる第四挿話を、「本当にそんなに読みやすいのだろうか?」と問い直す。この挿話は、いきなり臓物料理の記述に始まる。中年男ブルームの好む様々な臓物料理が列挙されていくのだ。この導入部にブルームのユダヤ性を読みとるという既存の研究があるが、桃尾氏はとくに羊の腎臓の「ほのかなにおいのする尿」という表現に鋭く切りこむ。「ほのかな尿のにおい」ではなく「尿」そのものだ。これはなにを示唆するか?
生と死、肥沃と不毛など、両極の間で揺らぐブルームの両義的性質を解き明かしつつ、セックス未遂夫婦の性愛のありかたを看破し、「肥沃性の否定という罪」を生命の円環へとダイナミックに転換して、『フィネガンズウェイク』へとつなげていく。鳥肌が立った。
モダニズムの幕開けから、コンラッド、ウルフ、C・マンスフィールド、ウォーなど一般読者の間でも再評価が高まっている作家、そしてコンテンポラリー作家まで、第一線研究者の最新の知見と思索の実りを届けてくれる圧巻の論集である。