文化の自己定義の揺らぎを映す
敦煌(とんこう)のことを知っている若い人はほとんどいなくなった。四十年前の敦煌ブームを思うと、隔世の感にたえない。果てしないゴビ砂漠に向ける激しい情念はいったい何だったか。著者はこの課題に正面から挑んだ。敦煌のイメージはいかに形成され、どのように変わったかが、周到な資料収集と丁寧な分析にもとづいて克明に解き明かされた。近代以降、日本人と敦煌の最初のかかわりは古文書に対する学問的な関心であった。二十世紀初頭、探検家スタインやペリオが相次いで敦煌入りし、貴重な資料を入手した。日本でも大きな関心が寄せられ、京都帝国大学では敦煌文書についての研究が始まった。その刺激を受けて、西本願寺の門主大谷光瑞が敦煌探検に乗り出し、莫高窟(ばっこうくつ)に赴いた第三次探検隊はついに日本人として初めて現地に到着した。そのあたりの経緯は手際よく整理され、敦煌熱が戦後に始まったという、ありがちな先入観が修正された。
井上靖の『敦煌』を語るのに、松岡譲の『敦煌物語』にさかのぼり、歴史家の論文、美術家や考古学者の旅行記などを視野に入れるのは優れた着想である。敦煌をめぐる神話は異なる分野の想像力が交錯するなかで編み出されたことが明らかになった。
敦煌とシルクロードはいわば楽譜の音符と五線のような関係で、シルクロードを語らずして敦煌ブームの謎も解かれない。「一帯一路」構想のとばっちりで、シルクロードという言葉はいまやすっかり泥まみれの様相を呈しているが、ほんらいドイツの地理学者リヒトホーフェンの造語で、大流行したのは日本においてであった。
シルクロードという言葉の意味は近代史のなかで変化してきた。一九七〇年代にいたるまで、南アジア、中央アジア、西アジアを経てヨーロッパへいたる、広大な地域を指していた。中国は文化大革命などで世界から孤立していたこともあり、長いあいだ、シルクロードのイメージには中国が欠落していた。
他者の記号学において、大きな意味の変容をもたらしたのはNHK特集「シルクロード」であった。七〇年代までのシルクロードブームに欠けていた最後のピース「中国」がはめ込まれただけでなく、やがて敦煌の淡い影がシルクロード上に覆いかぶさるようになった。
敦煌がシルクロードという物語において中心的な存在になったのは、小説だけでなく、映画や絵画も一役を買った。徳間康快(やすよし)や平山郁夫など敦煌伝説をめぐる人物像を通して、敦煌がどのように画像の演出により想像の聖地に祭り上げられたかが、明快に説かれている。
ただ、敦煌の人気は長く続かなかった。シルクロードブームが一夜のうちに敦煌ブームに変わったのと同じ速さで、敦煌に向ける夢もあっという間に潰えてしまった。
めくるめく興奮を通して見えてきたのは、現象の奥底に流転する時代精神である。敦煌に向ける遠方憧憬は必ずしも日中関係の潮汐(ちょうせき)にしたがって起伏するのではなく、日本の歴史は朝鮮半島や中国、インド、中近東ないし西欧の歴史と文化と接続するという認識のなかで生まれたものである。
敦煌神話の誕生から崩壊までの経緯は一枚の鏡のように、文化の自己定義の揺らぎをくっきりと映し出した。