書評

『松陰の本棚: 幕末志士たちの読書ネットワーク』(吉川弘文館)

  • 2023/11/21
松陰の本棚: 幕末志士たちの読書ネットワーク / 健真, 桐原
松陰の本棚: 幕末志士たちの読書ネットワーク
  • 著者:健真, 桐原
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(190ページ)
  • 発売日:2016-10-20
  • ISBN-10:4642058370
  • ISBN-13:978-4642058377

読書論から吉田松陰の思想を描く初の試み―幕末維新期の新たな地平が開かれる―

人生のなかで最も重要な時期のほとんどを投獄・幽囚のなかで過ごさなければならなかった吉田松陰にとって、書を読むこととその思索から生まれたものに注目することに何ら違和感はない。だが、それゆえに、藩意識を抜け出し、「日本」のために政治活動・実践を重ねていく典型的な幕末「志士」と一緒に論じることは難しい側面があるだろう。著者の桐原健真は、従来の吉田松陰へのアプローチ方法を、こうした松陰の読書に置き、近年少なからぬ研究者によって進められている「どのように読書をしたのか」という問いのなかで照射したのである。実は、徳富蘇峰・奈良本辰也・田中彰は言うにおよばず、従来の吉田松陰伝のなかでは、読んだ著書への言及はあっても、決してそれを軸に構成されたものではなかった。

本書は、松陰の読書を徹底的に分析して吉田松陰の思想を描くという試みをはじめて行った研究と言える。本書の前半に字数を割いて会沢正志斎『新論』を論じるのもこうした知見を真正面から論じるのにぴったりのテーマだからである。松陰が水戸を訪れたときに「日本の歴史」に目覚めたことは従来から指摘されてきたことではあるが、桐原はこれを様々な角度から分析してどのようにして『新論』が「松陰の本棚」に配置されていったのかを解き明かす。兵学者としてはじまった松陰の読書が、水戸を訪ねることでようやく「日本」という自己像を手に入れるに至ったのである。とくに村田清風との読み方の違いは実に興味深い指摘である。さらに、松陰の「尊王論」への純化を、黙霖との論争だけでなく国学・神道系書物への傾斜のなかに見いだしていく手法は、まさに読書論から松陰を位置づけるものに他ならない。桐原は、この読書をさらに同志的連帯としてとらえ、従来あまり注目されてこなかった岸御園、西田直養、鈴木高鞆という国学者・神職とのつながりや、須佐の小國融蔵とのつながりを読書ネットワークとして展開させた。

桐原の視点は、すでに既刊の『吉田松陰の思想と行動――幕末日本における自意識の転回』(東北大学出版会、2009年)や『吉田松陰――「日本」を発見した思想家』(ちくま新書、2014年)における「自他認識」や「日本」の発見、そして「国学的尊王論」への転回というドラスティックな思想的変化のなかで論述されてきたものである。本書の『新論』への注目度の高さも、国学への傾斜も、こうした問題設定の深みのなかから導いた方法論と言えよう。

さて、その一方でこの視点から「二十一回猛士」こと吉田松陰の「脱藩」や「海外渡航」そして間部襲撃計画などはどのように位置づけられるのであろうか。また、本の貸借を中心としたものから同志的ネットワークを見ると、松下村塾や育英館はどのようなものとして描き出すことになるのか。桐原の手法によって見いだされた吉田松陰論は、『新論』を通じて日本の「自己像」を論じる地平を準備し、また、松陰の「神勅」への絶対的な「信」を、国学・神道系書物の貸借・読書のなかでとらえることを可能とした。こうした松陰のとらえ方は今までにない画期的なものと言える。しかし、その一方で、激しい言動にほとんどの塾生がついていけなかったことなどから見ていくと、読書によるネットワーク論だけで松下村塾を論じるのも難しいように思う。

確かに、松下村塾を中心に据えてきた従来の教育史や思想的な見方だけではとらえきれない吉田松陰の思想という問題が横たわっており、桐原はそれに読書という方法で鋭く切り込んだが、その一方で松下村塾やその後の同志的な連帯に関わるトーンが後景に退いていくような印象を受けた。だがこれは評者の読み方が不十分なためであろうし、すでにこうした研究を準備しつつあるのかもしれない。幕末期という欧米列強が強引に東アジア世界を解体し、中国や日本・朝鮮をそのシステムのなかに組み込もうとするとき、一人の「思想家」吉田松陰がどのようにその巨大な力に抗っていこうとしていたのか。刻一刻と変化する状況をリアルタイムで体験する松陰が向き合った書物一つひとつに、改めて私たちも向き合うことが必要なのかもしれない。そのことが、幕末期に直面し、そのなかでもがき苦しみつつ自らの決断や考察を深めていった一人の人物を理解することにつながるのかもしれない。

本書を読んで、さまざまな歴史上の人物をその時代背景も踏まえた読書に着目し、しかもそれを取り巻く様々なつながりのなかで考えていくことの重要性を理解した。これは、知的な営みのなかで生きていく一人ひとりが自覚的にならなければならないものではないだろうか。読書とは、あくまでも個人を出発点とするが、そこには書き手と読み手、書籍の貸借を通じた集団や組織など幅広い研究分野が存在している。桐原が描く松陰の姿を通じて、幕末維新期の新たな地平が開かれたように感じるのは私だけではあるまい。


[書き手] 岸本 覚(きしもと さとる・鳥取大学地域学部教授)
松陰の本棚: 幕末志士たちの読書ネットワーク / 健真, 桐原
松陰の本棚: 幕末志士たちの読書ネットワーク
  • 著者:健真, 桐原
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(190ページ)
  • 発売日:2016-10-20
  • ISBN-10:4642058370
  • ISBN-13:978-4642058377

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図書新聞 2017年7月8日

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