書評
『意識はどこからやってくるのか』(早川書房)
私が機械の中に存在する? 哲学VS科学
少し遅ればせの書評になったことを御詫(おわ)びの上で、大変面白く読んだことをお伝えしたくなった。一方は長年哲学の立場から人間の意識を相手に苦闘してこられた碩学(せきがく)、もう一方はどちらかといえば若手、AI研究の最前線で活動する工学系科学者。本書では「マインド・アップローディング」、「クオリア」、「哲学的ゾンビ」、「ハード・プロブレム」などなど、珍しい術語が頻出する。語の丁寧な解説もあるが、多くの議論は、オーストラリア生まれ、アメリカで活躍するD・チャーマーズ『意識する心』(林一訳、白揚社)の論点を下敷きにしているので、邦訳は四半世紀前の刊行の本だが、機会があったら併せて読まれることをお勧めする。哲学的に根本的な問題でもある煩瑣(はんさ)な議論が、最前線の神経科学の成果と重なって、個人の「不死」やら、人間の「自己」などといった現実的な問題と密接に切り結ぶ現場が、二人の著者の鋭利な対話を通じて現前されるのが本書、小さな本(新書)と侮るなかれ、きわめて刺激的である。
それにしても冒頭から意表をつかれる。コウモリの世界認知が問われるのだ。いや、コウモリが超音波を使ってある種の世界認知をしている、ということは、科学的分析で判(わか)っているが、そのことが、コウモリとしての自己意識に繋(つな)がっているかどうか、という問いは残る。トマス・ネーゲルの発案になる有名なこの問は、そのまま反射されて人間に向かう。私が、私の世界を認知し、その認識を通じて「私の」意識であることは、どうして成り立つのか。
この問が新しい様相を帯びたのは、まさしくAIを通じて、機械が世界に関する情報処理を行うことが可能になったことによる。一般論として、その可能性を認めれば、「私の」世界認識における情報処理系を機械に移し替える(それがアップローディングだ)ことで、それが「機械の」、と同時に、「私の」意識にとなるのか。もしこの問いにイエスと答えれば、肉体としての「私」は死んでも、「私の」自己意識は機械の中で死ぬことはない。デカルトが『方法序説』でいみじくも喝破した、「私の魂」は私という身体を離れても存在する実体である、という論点が、形を変えて、現実に浮かび上がってくる。
ある観点から見れば、如何(いか)にも問題を無理に作り出しているようだが、そして、お二人の著者の間にも、そうした疑問は生まれたようだが、そして、そこに科学と哲学の差が如実に現れるともいえるが、議論は時に対立しながら、しかし、最後まで、生産的な姿勢を崩さないお二人の著者のおかげで、まれにみる緊張した対話が読者に与えられることになる。
最後まで読んで、提起された難問に明快な回答が得られたわけではない。しかし、人間の尊厳とも関わるはずの自己意識が、機械の中に移し替えられることによって、「私」は「不死」となるや、という問いに含まれる科学と哲学の双方の領域での含意が、今知性を揺るがす最先端の意義をもっていることは、よく了解でき、相互に溶融点を持たないかに見える科学と哲学の本質にも、思いを走らせる絶好の機会が、本書で与えられることだけは、保証できる。
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