在野の研究者説いた通史を追体験
ある年代以上の人間にとって、著者の名前は、ある種の感慨を惹き起こす伝説の源であろう。遥か昔になったが、知らない社会層が大半を占める現在、多少著者の物語に触れることから始めよう。著者は大学院で理論物理学を専攻する俊英と目されたが、一九六〇年代末に始まった学生反乱の際、所謂(いわゆる)東大全共闘の責任者として、投獄も経験、その後は、予備校教師として、毎年多数の教え子を大学に送りこみながら、自らは一切大学に足を踏み入れない信念を貫き、在野のまま(ということは、大学が所蔵する貴重な文献類に接する機会も持てないまま)、物理学における高い素養を活かし、科学史の分野で優れた研究成果を次々と世に問うてきた。その多くは本書と同じ書肆から出版されている。本書は、その著者が折に触れて公表してきた講演や文章を、例えば「科学史の基本問題に取り組んで」という項は僅か二ページ強だが、その意味では断簡零墨にいたるまで、自選の形で集めたもので、もう一巻が予定されている(本書の「あとがき」に、その内容が紹介されている)。ただ、エッセイ集としては異例の、明確に限定された課題を表現したタイトルなので、読み進めていくと、本書の後半、殆(ほとん)ど全体の半分を占めているのが、まさしく「物理学の誕生」というテーマの高校生を対象とした講演記録だったので、なるほどと合点が行った。その部分は、文字通り、著者独自の近代物理学の成立通史として読める。天文理論発展の状況を、現代流に丁寧に数式化することで、丹念に裏付けながら説いていく手法は、高校生にとって、得難い体験になったに違いないし、本書の読者もまた、それを追体験できる。
勿論、歴史は歴史家の数だけ書かれる、ということは、この場合も真で、細かい点で異論がないわけではない。例えばデカルトが「物理学としての天文学への寄与はほとんどありません」という断定(三一六ページ)はどうだろう。話が細かくなるが、古くJ・ヘリヴェルの論考でも明らかなように、ニュートンがデカルトから大きな影響を受けたことは確かだし、慣性概念も、ガリレオを超えたデカルトの把握を無視することはできないと思われるのだが。
著者が新しく提案されている大事な論点は、歴史のなかで、既存のルネサンス論と科学革命論を補完するものとしての、「16世紀文化革命」論がある(例えば本書第5章)。その最も重要なキーワードは「ラテン語」であると考えられる。この時期、人々が所謂「ヴァナキュラー」な言葉(それぞれの地域の言葉)で書くようになったことが取り上げられる(例えばガリレオの主著『天文対話』は彼の生地トスカナの言葉で、デカルトの『方法序説』はフランス語で発表された)。著者は英語で言う<vernacular>が、ラテン語の<verna>つまり「主人の家で生まれた奴隷」を指す言葉に由来することを、丁寧に説明した上で、言わば一般の「庶民」に学問が解放されていく過程として、一六世紀を捉える。ルターのドイツ語訳聖書の試みもさることながら、一般には「職人」として評価される層が、自分たちの世界で得た知見を書物に公表し始めたことを説得的に説明する著者の主張は、傾聴に値する。