書評
『博学者 知の巨人たちの歴史』(左右社)
「博識」恐るべき膨大な名前の連なり
この大著の原題はPolymathという。「多・複」などの意味を持つ<poly>に<math>が重合して出来た語。<math>は、普通数学の意味だが、もともとのギリシャ語は「習得された知識」というような語感、そこで博識者、博学者という意味が生れる。この本、恐るべき内容である。サーヴェイされるのは西欧世界が主だが、一体何人の人名が登場することだろう。著者の選んだ博学者五百人のリストも巻末に添えられているが、それだけで気が遠くなる。著者はイギリスの文化史の研究者、如何にもイギリスの知識人らしく、さりげなさに隠された博識が、鮮やかに浮かび上がる書物。と書いたが、さて、どう紹介すればよいのだろうか。巻頭に付された挿図だけでも、レオナルド、ヴォルテール、ライプニッツ、フォン・フンボルトなどはよいとしても、スウェーデンのクリスティナ女王(デカルトを王室に招いて、哲学談義に耽ったとされる)もさもありなんとしても、ポール・オトレ、メアリー・サマヴィルとなると、挿図だけで全くお手上げ。恐入ってしまう。
著者がとった手法は、「プロソポグラフィ」とよばれるもので、これもギリシャ語で「人物・人相」を意味する<prosopon>と「描写」の意の<graph>との合成語で、一人の人物の生涯を様々な角度から記述すると同時に、その人物の生きた時代と社会の状況にも、描写の手を緩めない手法を指している。当然通常歴史的な人物が対象になるが、そして本書の記述も、古代ギリシャのピュタゴラス、アリストテレスらから始まり、ルネサンス期に花開く知識革命を担った偉人達など、大部分の記述は歴史的人物に当てられるが、二十世紀アメリカ最大の政治学者ハロルド・ラスウェルなどの名に言及することも避けられてはいない。もっともイーロン・マスクについては、態々(わざわざ)名に言及しながら、記述からは除く、というのも、面白い。特に終章では、現代社会の中での「博識」の持つ意味に関して、独自の分析が行われていることにも、注目しておこう。
本書の特徴の一つは、原著の副題が「レオナルドからスーザン・ソンターグに至る文化史」となっているように、特に女性に照明を当てようとする意図が鮮明なことである。科学史の世界では、過去に科学者と称される人物のほとんどが男性であることへの反発から、英語では女性科学者だけを集めた辞書が刊行されたり、ロンダ・シービンガーの『科学史から消された女性たち』(小川・藤岡・家田訳、工作舎)など、純正フェミニズムの立場からの名著がすでにいくつかあるが、本書で、女性の博学者を掘り当てて紹介することに、大きな努力が払われているのは、当世風とだけ片付けられない特色である。
博学への抵抗ベクトルとして、近現代では専門化の傾向が顕著で、それへの更なる抵抗として、シカゴ大学を拠点にしたハッチンズの教養教育活動、あるいは彼が依拠したオルテガ・イ・ガセットの反専門化論などにも筆が及んでいるのは、当然とはいえ、著者が、文化史という歴史の領域だけに閉じこもっているわけではないことも、印象的である。
索引一七ページ、原註だけで四九ページが物語る本書は、読むに難儀だが、一読に値することは確か。