書評

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)

  • 2017/07/11
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻  / 村上 春樹
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:ペーパーバック(471ページ)
  • 発売日:2010-04-08
  • ISBN-10:410100157X
  • ISBN-13:978-4101001579
内容紹介:
高い壁に囲まれ、外界との接触がまるでない街で、そこに住む一角獣たちの頭骨から夢を読んで暮らすの物語、"世界の終り"。老科学者により意識の核に或る思考回路を組み込まれたが、… もっと読む
高い壁に囲まれ、外界との接触がまるでない街で、そこに住む一角獣たちの頭骨から夢を読んで暮らすの物語、"世界の終り"。老科学者により意識の核に或る思考回路を組み込まれたが、その回路に隠された秘密を巡って活躍する"ハードボイルド・ワンダーランド"。静寂な幻想世界と波瀾万丈の冒険活劇の二つの物語が同時進行して織りなす、村上春樹の不思議の国。
この作品は、同棲していた妻と別れて、気軽な独身生活をエンジョイしている三十五、六歳くらいの壮年の「私」(あるいは「僕」)の「愛」と「冒険」と「死」の物語だといえばよい。この主人公の「愛」とは、女の子と「寝る」ということが、軽く幾分かもの哀しく、情緒としては明るいさらっとしたものであるかぎり、自在にいつでも成立つような、そんな「愛」を二人の女の子と交換することだ。作品のなかでいちばん生彩があるのはこの部分、とくに手ばやく「私」(または「僕」)が料理をつくって、女の子をもてなす部分だといってよい。またこの主人公の「冒険」はふたつの意味をもっている。ひとつは、じぶんの職業である「計算士」として、『組織』に所属しながら、対立している「記号士」の組織や、東京の地下の暗闇に巣喰っている「やみくろ」という生き物に妨害をうけながら、かれらに秘密を盗まれたら世界が破滅してしまう「音抜き」の発明をやった老博士を守り、老博士のために「計算士」としての頭脳を提供し、老博士の発明を「記号士」の勢力から保護するために、都市の地下へ潜ってゆく「冒険」である。もうひとつの主人公の「冒険」は、老博士に頭脳を提供し、意識の表層を削って中心の核だけを残す方式を獲得したために、意識の核に「街」のイメージをもつようになり、そのイメージの「街」のなかでじぶんの「影」ときり離されて、街の図書館にかよって、動物の頭骨から、「古い夢」を読むことを日課のように繰返しながら、その街の地図を作りあげて脱出口がどこにあるかを探しあて、「影」と一緒にその「街」を脱出しようとする「冒険」である。ふたつの「冒険」も最後にやってくる「死」も、じつは助け守ろうとしている老博士が、「私」(または「僕」)の脳を、研究のため作り変えたことから起った運命だとわかる。そしてこの運命は、生きることに積極的な意欲をもたない白けた主人公の蒙る被害感を暗喩している。このイメージの「街」の住人はみなじぶんの「影」と分離されていて、じぶんも「影」も生きているあいだは、「夢読み」に従事しなければならない。「影」が死んでしまうと街なかに住めるが「心」を失ってしまう。「心」をすっかり失えなかったものは、森のなかだけに住んでそこを出られない。このイメージの「街」は、不安も苦悩も不自由も死もないかわりに、とりたてて歓喜も至福もあるわけではない。もうその意味では死後の安楽の世界のようなもので、作者の着想では時間を拡大して得られる不死の世界ではなく、時間を分解して得られる不死の世界を暗喩している。意識の核にもぐりこんでどこまでも時間を砕いてしまうことによって、この「街」のなかに住みつくことは永遠化される。いわば主人公である「僕」が意識のなかに作り出したイメージの「街」であり、このなかに入りこめるかぎり、肉体は死んでも、永久に不死でいることができるような世界として設定されている。

この作品の主人公は、ある種の独身者が身ぎれいで、いわば独身者のむささを何年たっても見せず、また料理好きで、ちょっとした小綺麗でシャレた料理を手ばやく作って、それを肴に洋もののビールや果実酒を飲んで生活を愉しんでいる、そんなイメージを浮べれば、とてもよく似た姿が浮んでくる。倦怠と意欲が同一であり、モチーフのない生活の微細な影を、おっくうがらずに丁寧にニュートラルに触れながら、日々を過ごすことが、快楽の通路であるような、消極的だが感じのこもった現在ふうの壮年のイメージなのだ。

この主人公は「僕」としては、「世界の終り」とも「不死の世界」ともいえる意識の核にあるイメージの「街」のなかで「夢読み」にたずさわりながら生活する。「街」の門番と会話すること、影と出会って脱出のための地図を作り、打合せをすること、老大佐とチェスをして遊び、とりとめのない会話を愉しむこと、日課となった図書館で「夢読み」の手伝いをしてくれる女の子と楽しむこと、これが「僕」の日常であり、また「街」の外と内をゆききする獣たちの姿と、「街」の川や森や塔や季節の移りゆきを感受しながら、何かひとつ躍動を欠いた「街」の平穏な世界を、死後の浄土のように感じながらも次第に苛立たしい思いにかられてゆくのが、「僕」を訪れる運命の姿なのだ。この主人公は「私」としては、あるビルの部屋の洋服ダンスの後ろに作られた断崖からハシゴを降りて、東京の地下に下水道のつづきのようにある川に沿って、仕事の依頼をうけた老博士の仕事場へ、孫娘の案内で行くことを強いられる。滝の裏側にある洞穴に作られた部屋と仕事場で、音響や音声を自在に消せる発明をしたために、「記号士」の組織から狙われている老博士のために、必要とするデータを計算し、老博士にコントロールされて脳の洗いだしや、シャフリングに従事する。また「記号士」たちの勢力に追われて閉じこめられてしまった老博士を救い出すために、老博士の孫娘と一緒に地下の世界で危険にさらされて活動する。

「僕」のイメージの「街」の生活の光景である「世界の終り」の物語と、東京の地下で「記号士」に奪われれば、世界が破滅にひんするような大切なデータを守るために活動する「私」の物語である「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界とは、この作品では交互に語られながら、ふたつの物語とも最後のカタストロフィ(破局)に近づいてゆく仕掛けになっている。主人公の脳は、ほんとは老博士の発明のデータ処理のために、手術を受けており、余命もなく消滅して、不死の世界あるいは「世界の終り」へ行かなければならない。「世界の終り」の「街」では「僕」は影だけを「街」の外に脱出させ、じぶんは「心」を喪失したまま不死の世界で、図書館の「夢読み」を手伝ってくれた女の子と暮そうと決心する。「自分の意志で選んだことといえば、博士を許したこととその孫娘と寝なかったことだけだった」。やさしい受身の生活者である主人公に、作者はもの哀しい「冒険」と「死」の物語を与えている。

わたしたちはちょうど、主人公の「私」が「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界で、最後の眠りに就いたとき、「世界の終り」の街で「影」だけを「街」の外へ脱出させた「僕」が、平穏だが「心」が欠けた不死の街で永久に生きつづけようと決意する場面とを重ね合わせながら、作品を読み了える。

なんとなくこう言いたくなる。御苦労さん作者さん。御苦労さん読者さん。まず衆目のみるところ、もっとも希望をつなげる意欲的な若い世代のホープたる作者が、精いっぱい物哀しく、明るく軽い抒情をみなぎらせて、知的なたわむれの世界を繰ひろげてみせてくれた。わたしはこれくらいのSF的な道具だてだったら半分の長さに縮めるべきだったとおもう。流れの濃度が淡くゆっくりで、しかも細部がつまっているので、読みとおすのが困難だった。でもたぶん、その本質が恐怖でもなく、はぐらかしの幻想性や幼児性でもなく、またいやに通俗的な古い情念の劇(ドラマ)でもなく、明るく軽く物哀しい終末感と日常的な倦怠感とを、高い質でみなぎらせたSF的な世界を、この作品ではじめて、わたしたちは見ることができたのだといえよう。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈上〉日本篇  / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈上〉日本篇
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(387ページ)
  • ISBN-10:412202580X
  • ISBN-13:978-4122025806

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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻  / 村上 春樹
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:ペーパーバック(471ページ)
  • 発売日:2010-04-08
  • ISBN-10:410100157X
  • ISBN-13:978-4101001579
内容紹介:
高い壁に囲まれ、外界との接触がまるでない街で、そこに住む一角獣たちの頭骨から夢を読んで暮らすの物語、"世界の終り"。老科学者により意識の核に或る思考回路を組み込まれたが、… もっと読む
高い壁に囲まれ、外界との接触がまるでない街で、そこに住む一角獣たちの頭骨から夢を読んで暮らすの物語、"世界の終り"。老科学者により意識の核に或る思考回路を組み込まれたが、その回路に隠された秘密を巡って活躍する"ハードボイルド・ワンダーランド"。静寂な幻想世界と波瀾万丈の冒険活劇の二つの物語が同時進行して織りなす、村上春樹の不思議の国。

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1985年9月

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