耳の傾け方
経済の破綻がそのまま心の荒廃につながるのだとしたら、あまりにもわびしい。だからといって新興宗教に助けを求めるのも、あたりまえの暮らしから顔を背けているようで居心地が悪い。節操のない世の中で自分を保つにはどうしたらいいのか。かつてはいたるところで見受けられた、周囲の人間の気持ちをも和らげるようなぬくもりをどのように回復したらいいのか。ここにひとりの噺家がいる。日ごろの不養生がたたって糖尿を病み、白内障を進行させてほとんど視力を失いかけているというのに気落ちするふうもなく、世界に目を閉ざすのみならず、自身の内側を覗きこむために、好んで目を悪くしているようでもある。まだ二つ目で師匠に愛想をつかされ、いわば落語の落伍者となるのだが、形容しがたい不思議な脱力の技を用いて、ふらりふらりと日の移ろいに耐えていく。
辻原登の連作短篇『遊動亭円木』の主人公円木は、その名が示すとおり、地面すれすれの高さに鎖でつるされた頼りなげな丸太のように、乗る者の体重や動きにあわせて心地よく揺れる存在だ。鎖でつながれている以上、置かれている境遇から本人は逃げ出すことはできないけれど、かわりに他者の傷をやさしく癒してくれる。読者は円木の話に耳を傾けているうち、その遊具の振幅のなかでいつしか心が慰められていることに気づくだろう。
バブルの狂乱時代に買いあさった土地がこげついて三年ほど逼塞を強いられていた明楽(あきら)のだんなも、そんな円木に惹かれた人間のひとりである。不動産事業の失敗からなんとか這いあがり、ようやく力を取り戻してきたこの粋人のパトロンが、ある日とつぜん、贔屓の円木のもとに大相撲の枡席チケットを送ってくる。一九九七年夏場所。本書は萎えた気分も底をついたこの時期から、あたらしい世紀を迎える直前の一九九九年半ばまでという明確な時間帯に収まった、控え目だがそのありがたみがじんわりと効いてくる抵抗の物語である。
明楽のだんなは赤門を出た正真正銘のインテリで、円木の師匠とも交遊のあった落語好きだから、芸の質を見きわめる目もきちんと備えている。彼によれば、円木は、「一見腑抜けのようでいて、高座にあがると、地語り、会話をみごとに、まるで蚕が糸を引くようにつないで、色つやよく繰り出」す玄人好みの芸の持ち主で、いちばんの魅力は「噺を演じているのが円木なのに、語っている当人がまず耳を傾けている、傾けながら演っている」ところにあるという。これは目がまったく見えなくなる以前から身体に染み込んでいた人と為りというほかないのだが、そんな芸風が視力の減退とともにいっそう研ぎすまされたのは事実のようで、国技館の枡席にひとりぽつんと陣取った円木が、立ち合いの音や呼び出しに聞き入る耳だけで相撲を「観戦」する表題作なかほどの場面は、世間を前にした円木の背筋の美しさを際だたせて、ことに印象深いものとなっている。
とはいえ、目の不自由な円木の暮らしには日々の介助も必要だ。その役を気さくに引き受けているのが妹夫婦で、彼らが経営している小松川の賃貸マンションの空き部屋に円木は居候させてもらっている。この建物には臑(すね)に疵を持つ男たちとわけありの連れ合いが何組かはいっていて、それぞれに円木と接しているのだが、彼らはこの盲人に手を貸すのでなく対等につきあい、むしろ助けられている様子である。それも具体的にどうされたというより知らず知らずのうちに励まされているといったふうで、ある女性の住人は円木を評して、「落語(はなし)家のくせに、話もなにもしなくていいの。ここんところ、ほら、脊髄っていうの? それがスーッとしずまるのよね。ふしぎと……」とため息をつくほどだ。
人情噺を聞かされているようにテンポよく進んでいく一連の物語の登場人物は、たぶんみな円木の奇妙な力に惹きつけられている。かつて円木といきさつのあった矢野という女性も、偶然の出会いから妻となった寧々も、悪性腫瘍に冒されつつ病院での治療を断り、自力での回復を決意した明楽のだんなも、意思疎通のもっとも基本的な、他者への、そして自分自身に対する「耳の傾け方」を円木に教えられている。物語の最後で円木は、高座にあがるかわりに上方と江戸とを問わずあらゆる噺を覚えて、「落語のジューク・ボックス」たらんと心に誓う。好きなレパートリーだけを練りあげて閉じた噺家になるのではなく、いっさいを受け入れ、誰かが必要としたときに必要な演目を、臭い言葉だが「こころ」を差し出すのだ。
明楽のだんなは言う。私たちはみな神様の居候ではないかと。『遊動亭円木』は、この殺伐とした時代に神様の居候として暮らす人々すべてにあたたかい耳を傾けた、ぬくもりの書なのである。
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