書評
『自然のものはただ育つ』(河出書房新社)
ふたつ目の死を見据えた言葉の軌跡
イーユン・リーは、一九七二年、北京に生まれ、生物学を学んだのち九六年にアメリカに留学、免疫学の研究者となる途上で、英語による創作の道を選択する。二〇〇五年に刊行された第一作『千年の祈り』が複数の文学賞を得て高く評価され、作家としての地歩を築いた。だがその後の彼女の人生は平坦(へいたん)ではない。ふたりの息子をともに自死で失っているのだ。二〇一七年に長男のヴィンセントを十六歳で亡くしてほどなく、彼女は母親と死児の架空の対話から成り立つ『理由のない場所』を書きあげ、虚構のなかに亡き子の居場所を設けた。その時点で来るべき出来事への予感めいたものはあった。だが現実に起こるとまでは信じていなかっただろう。
しかしそれは起こった。二〇二四年、今度は次男のジェームズが十九歳で死を選んだのだ。本書『自然のものはただ育つ』は、次男の死というより、それを契機に彼女の内部にいやおうなく生じた変化をまっすぐに見つめた記録であり、つよく張りつめた、そして所々で細かい震えが伝わってくる思索の跡である。
悲しみに耐え、同情を買い、涙を流させ、慰めを求め、喪失を嘆く文章ではない。「悲しむ(グリーヴィング)」とか「悼む(モーニング)」という言葉も遠ざけ、子を失った親に外部からあてはめられる紋切り型を、完全に切り離している。作者の言葉を借りれば、ただ「奈落の底」にいてそこにとどまり、「徹底的な受容」を実践する。
ただしその方法がもたらす成果に期待もしていなければ、ゴールを設定しているわけでもない。奈落というより砂漠に似た場所に立っているので、読み進めるうちこちらの存在の水分が奪われていくような乾きを覚える。そして時々、きわめて慎重に調整された酷薄さ、とでもいうべき感覚に襲われる。
ジェームズは論理的思考力と言語能力が異様に高く、口数の多くない子どもだった。世のなかとうまくわたりあっていけない、しかしその位置を意識的に守っていく冷静さをそなえていた。
兄の性格は対照的だった。どちらもおどろくほど聡明(そうめい)だったが、似た者どうしだったら、ともに自死でこの世を去った事実があったとしても、本書はおそらく書かれていなかっただろう。母であり作家であるひとは、すでに書かれた長男の本の延長線上に、二冊目の語りの軸を容易に見出(みいだ)しただろうから。
幼い頃の兄弟の、親友のような関係性について触れられる箇所がある。彼女にとって、それはかならずしも楽しい思い出ではない。大きさはおなじでも、紙質や絵柄がまったく異なる二枚のカードを時間をずらして冷静に眺め、語っている側の内面を照らし直す作業だからである。
兄の自死を弟に告げたのは、長男の誕生後に鬱から自殺未遂にいたる経験を持つ、母親でもある彼女自身だった。兄は六年生のとき、作文に手を入れた母親に、「形容詞と副詞はやめたくてもやめられない娯楽なんだよ!」と申し立てた。他方、弟は過度な装飾を許さなかった。高校の最終学年を、ウィトゲンシュタインの主要作品を読むことに費やし、母親に『論理哲学論考』を薦めたという逸話もそれを証している。
ジェームズは自分の内部にある世界を外の人間と共有したいと考えていなかった。彼の言動をわかりやすい比喩に置き換えて、解釈をほどこすのは、ほとんど暴力に等しい。語り得ぬものについては沈黙しなければならない、とウィトゲンシュタインは言った。喪(うしな)ったものの量を測り、その分を言葉で埋めるのではなく、次男がどのような世界を持っていたか、それを意味づけなしに示す文体を見出さなければならないのだ。
彼女にとって世界はもう意味をなさなくなっている。それでも世界はつづいていく。だからその意味をなさない状態をひたすら維持するしかない。不在の息子の沈黙を破るのではなく、いつまでも壊さないための、最小限の言葉を並べることしか許されないのだ。母として以上に、作家としてこれほど厳しい状況があるだろうか。事実を物語にも教訓にもしないよう、越えてはならない境界線がある。それを目に見えるものにしつづける一時的な保管場所を、作者は「プレースホルダー」と呼ぶ。喪われた息子に向かってまだ声を発しえた前作とちがって、ふたつ目の死を見据えた作家の言葉は、だれにも向けられていない。息子たちをつつむ沈黙の縁をただ指でなぞるだけで、生きる理由の尽きたその先への進路をあえて示さない。
ジェームズはカミュの『シーシュポスの神話』も愛読していた。息子をつづけて自死で喪う。信じられないような不条理だ。しかし不条理のなかでもあえて生きることを選び、反抗することに希望を見たフランスの作家とはちがって、イーユン・リーは希望や幸福も視野に入れていない。息子が死んだ事実を認め、自然に生き、いずれ死んでゆく植物のように、「いま」の重みを「いっときだけ場をとっておくもの」にとどめる。崩壊を先延ばしにする言葉の軌跡に、私は呆然(ぼうぜん)とたたずむ。
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