書評

『うわさ―もっとも古いメディア』(法政大学出版局)

  • 2022/10/04
うわさ―もっとも古いメディア / ジャン・ノエル・カプフェレ
うわさ―もっとも古いメディア
  • 著者:ジャン・ノエル・カプフェレ
  • 翻訳:古田 幸男
  • 出版社:法政大学出版局
  • 装丁:単行本(384ページ)
  • 発売日:1993-10-00
  • ISBN-10:4588099019
  • ISBN-13:978-4588099014
内容紹介:
現代社会の豊かな情報の中でなお最強のメディアである《うわさ》とは何か。うわさの誕生と死、うわさの解釈、うわさの利用、うわさを消すことができるかなど。
この本に記されている「うわさ」の定義をいくつか並べてみたい。もちろん書評子が噛みくだいたうえのことでだ。するとこの本がどこまで手が届き、どの方面に重点をおいているかが、おぼろ気にみえてくるような気がする。

(1)確かな根拠も材料もないのに、信じているそぶりの好きな人たちによって言いふらされてゆく、現にその人たちのあいだに関心のある主題。

(2)はじめは確かな根拠もなく即興的に発生したニュースが、しだいに意図された目的にそって変形され、拡大しながら伝えられた偽(にせ)の情報。

(3)納得できるような説明がないために、かえって集団のなかで論議のまとになり、流布される情報とその解釈。

(4)大衆が確かめられないままに信じさせられる意図された偽(にせ)の情報。

(5)いちばん大事なところが秘匿されているために、憶測をよび起して、流布される情報。

(6)私的な怨恨や公的な失脚をねらった情念がまつわりついて膨らんでいった情報。

(7)うち消せばうち消すほど強調とおなじことになる要素をふくんでいる自己矛盾をふくんだ情報。

もっとたくさん取り出すことができるほど、この本はあらゆるありうべき場合について、うわさの事例があげられ、解釈がほどこされている。わたしたちはどこからでも、この本のなかに入ってゆくことができるが、わたしなりに興味と関心をそそられるところから取りついてみることにする。この本に中国の故事説話のなかから、ひとつのエピソードが挙げられている。ひとりの男がじぶんの使っている斧を失くしてしまった。男は隣りの家の息子が盗んだのではないかと疑って、その息子を監視しはじめた。息子のそぶりは疑えば疑うほど斧を盗んだもののそぶりだった。息子の話す言葉のはしはしも斧を盗んだことを暗示していた。また息子の態度や行動のすべてが、斧を盗んだ人間だということをあきらかに指していた。ところが或る日男はじぶんの家の土を掘り返していて、じぶんの斧の埋もれているのを見つけたのである。翌日から、男が隣家の息子を監視してみると、その息子のそぶりや振舞いはどこにも斧を盗んだことを思わせるようなものはなかった。この本の著者はうわさのもつ本質的な性格を、ここに見つけ出しているように思える。あるひとつの事象は、いつも角度を変えることによって、かならず多様な解釈をゆるすものだ。ひとつの事象がひとつの決定的な解釈のほかに解釈がありえないとおもっているのは錯誤にしかすぎない。またあるひとつの事象は、かならずその「前」と「後」をもつものだ。いいかえれば系列のなかにあるもので、どんな特異で単独にみえる事象でも、かならずその事象を内に含む系列をみつけることができる。ひとつの事象が単独に脈絡なく出現するとかんがえるのは、これも錯誤にしかすぎない。中国の故事は、ひとつの事象が、そう視ればそう解釈できるし、そう視なければべつの解釈になり、そのふたつの解釈のあいだにはすこしも矛盾などないことを明示して語っているものだ。うわさは、ひとつの事象がもっている無数の解釈可能性ということに発生の根拠をもっていることを、この故事はよく象徴した挿話になっている。

ではどうしてわたしたちはうわさを信ずることがあるのか? うわさを信じやすい人の特徴は特定して、抽出できるだろうか? またうわさが社会的な事件になったり、逆に社会的な事件がうわさになったりするために、どんな条件が必要なのか? この本の探究は、たくさんの事例と多様な接近の仕方で、こういった課題を解きほぐしていく。たとえばB・バイヤールの婦女誘拐のうわさの研究にふれて、著者は、このうわさにいちばん不安を感じ、おののいた女性は〈かなりの年配で、相当に醜い女性たち〉であった。これはうわさが自己愛的な根拠をもっていて、さらわれることを恐れ、不安がることで、じぶんがさらわれる可能性があることを示したかったのだと述べている。この場合若い娘たちやかわいい娘たちは、むしろうわさを娯しむ傾向があったということだ。著者のこういう指摘はこのケースがもっと拡張できることを示唆していると思える。うわさに乗りやすく弱い傾向は、胎乳児のときに母親から根源的な不安を与えられているところに発祥している。娘たちだけでなく男たちもまたこのばあいには娘たちとおなじなのだ。コーヒーは〈神経系統にとって有害で、発癌の惧れがある〉といううわさは、コーヒーを大量に飲む人ほど不安になり、信じやすいはずである。だがこれを信じ不安にかられたのはコーヒーをそれほど飲まない人であった。大量にコーヒーを飲む人はこのうわさを受け入れなかった。〈タバコを喫むのは肺に有害で、肺癌の惧れがある〉というのは科学的根拠があるといううわさが流布される。著者の筆法を使えばこれを信じやすい男性や女性は、タバコを喫む人よりも、タバコを喫まない人におおいことになるはずだ。わたしたちはもうすこしさきまで著者たちの考えを適用してみるとする。わたしたちの属している社会集団や共同体やシステムのなかに、不安や不安性の揺らぎがおおければおおいほどこの種の科学的な根拠についてのうわさが、人々に信じられやすくなってゆく。うわさを積極的に流布し、情報にして流し、職場や駅の構内や、ちいさな共同社会のなかに、禁止区を設けようと宣伝するものは、医師であったり、社会運動家や政治運動家や宗教家であることもあるだろう。これらの人たちはすくなくとも、うわさが事実であるかどうか、ほんとうにそんな結果になったのかどうかよりも、社会生活や精神生活のなかの根源的な不安を共有し、誇張し、また増大させることに、よりおおきな動機をもっているといってよい。この本の著者のいうことばを使えば、どの共同体も、どの集団もそれぞれ「好みの贖罪の山羊」をもっているし、その贖罪の山羊を個々人の心のなかにもまた制度的にも必要としている。それだったら何がこの贖罪の山羊に択ばれるのか。もちろん具体的な事例ではコーヒーであってもタバコであっても、食品であっても、地球の危機であっても、うわさと嘘話の因子を含んでいれば何でもいいのだ。うわさや嘘話の因子をもし共通項でくくれるとすれば、その事象が不安のタネをもち、発芽し、枝葉をひろげ、酵母のように膨らむものだったらいいことになる。ことにこのばあい重要なのは著者のことばでいえば、できるかぎりうわさにくわわることが、「集団へ参加」する行為だとみなす人々と、不安を共有できる契機をもっているかどうかということだ。この本で挙げている例では、ソ連でおこなわれた調査で公式のメディアよりもうわさの方がいっそう信頼できるかどうかという質問にたいして、上級管理職の九五パーセント、サラリーマンの八五パーセント、労働者の七二パーセント、農民の五六パーセントが、その通りだと答えた。しかも注目すべきことは、調査の対象になった人たちが、ソ連の体制に反対であるか賛成であるかは、この数値にかかわりなかった。するとなぜ上級管理職のほうがうわさを信頼する割合がおおいのか。著者の解釈では上級管理者ほど公式のメディアが伝える情報とその説明が、現実にあったこととギャップがあることを、よく知っていて、うわさによって均衡を保ちたいからだということになる。じぶんがついている嘘はじぶんがいちばんよく知っているという原則が、権力により近い場所にいる上級管理職になるほど切実に作用しているということもある。農民のパーセントがいちばん低くなるのは、この逆の原理による。公式のメディアの言明を嘘だという根拠をいちばんもっていない。いちばん権力の中枢からは遠くにいるし、職業として向きあって相手にしているものは、人間であるよりも、自然や気候のほうがおおきい部分を占めているから、公式な表明からもうわさからもおなじ距離ではなれている。また真実を知らないことの社会的不安よりも社会的な無関心と自然の天候や気候にたいするあつい関心のほうが、おおきい部分を占めているにちがいない。でも著者の理解では、いちばんうわさを信じないのに、いちばん利用するのも農民だとしている。

著者たちは、女性とうわさ話や陰口とのかかわりから入って、うわさの民俗的な起源についても言及している。うわさ、世話ばなし、陰口をあらわすコメラージュということばは、ラテン語のコマテル(共同体の母、名づけ女親、代母)から由来していると著者はいう。村の代理の母と親密な情緒的なつながりのある村落の共同体の娘たちのあいだには、閉じられた世話ばなしや陰口やうわさ話がとり交される地盤があった。もっといえば村落の家に子どもが生れそうになると、村落の女親たちは、その家にあつまってきてお産の手助けをし、世話ばなしを交しあった。この場面はすくなくとも村落の男たちの介入を許されない場面であり、男たちの関与しているあらゆることに、陰口や虚構の話や、うわさが許されたにちがいない。もちろん男たちも対抗して村落の公的な行事や権力から女たちをしめ出そうとする制度をつくるようになったともいえよう。これがうわさの起源と性格をとてもよく象徴している。著者によれば家父長制の社会は、こうしてうわさの発生源を公的な行事から排除しようとして生み出されたといっても過言ではないことになる。女たちの方も、「私生活を公的なものにして」これに対抗することになっていった。

この著者の解釈しているうわさの起源は、もっと遡ることができるように思われる。もっと以前の共同体では、うわさだけが真実の情報源であった。たとえば原始的な集落のなかのひとりが、じぶんは明け方に山の頂きに神が天から降りてきて、そこで舞いを舞っていたのをみたと集落のひとたちに告げたとする。すると別の人々はそれを見ようとして明け方に起きて眼をさましていて、山の頂きにひとみを凝らす。そのひとたちは、神が降りてきて舞っているのを見つけるばあいも、見つけないばあいもあるにちがいない。だが見つけなかったばあいも、ほかの集落の人たちに語るときは確かに見た、その姿はこうで衣裳や手振りはこうだったと誇張を混えて喋るかも知れない。そしてこれが集落じゅうにうわさとして広まると、こんどは逆に集落の長老たちは、ひそかに相談しあって、誰か集落のひとを当番に択んで特定の日に特定の山の頂きに、しかじかの衣裳をつけて現われるように言いつけるようになる。そうしてうわさは事実にまで高められ、偶然の情報はとうとう祭儀にまとまり、うわさの流布はとうとう神話にまでなってゆくかもしれない。そして神々が実在してゆくことにもなる。

この本の著者は、こういう経路とは逆にうわさが都市伝説になって拡散し、消失してしまう性格をもつ場面についても、充分な事例と解釈をほどこしている。都市が伝説の起源も持続性ももたないのは都市の歴史が、起源を云々するのが無意味なほど新しいからでもなければ、その住民が雑多な地域からの寄せ集めだからでもない。共同体をつくって維持することが、生活の意味をつくることに反するからだ。うわさはとくに大都市ではいかほど意図され、こしらえられても、はなはだ未開の、幼稚なことが信じられている集団のなかでしか発生しないし、流布されない。それは退化した情念を代理するためだけに存在している理念の終り、あるいは終りの理念なのだ。都市では私的な利益団体の代理として情報を配布する職業集団としての広告代理機構が、うわさの発生、伝播、拡大を司っている。これはこわれてしまった共同体のなかに、共同体が存在するかのようなキャッチ・フレーズを流布するという矛盾の帯域でだけ成り立つうわさの現在版の役割をはたしている。これが著者のいう都市伝説の根拠になっているのだとおもう。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇  / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(273ページ)
  • ISBN-10:4122025990
  • ISBN-13:978-4122025998

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うわさ―もっとも古いメディア / ジャン・ノエル・カプフェレ
うわさ―もっとも古いメディア
  • 著者:ジャン・ノエル・カプフェレ
  • 翻訳:古田 幸男
  • 出版社:法政大学出版局
  • 装丁:単行本(384ページ)
  • 発売日:1993-10-00
  • ISBN-10:4588099019
  • ISBN-13:978-4588099014
内容紹介:
現代社会の豊かな情報の中でなお最強のメディアである《うわさ》とは何か。うわさの誕生と死、うわさの解釈、うわさの利用、うわさを消すことができるかなど。

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1988年8月

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