書評
『残光』(新潮社)
私は保坂さんのいうことは信じるに足る、といつも思うくせがついている。不思議なことに一つを除いてそうなのだ。その一つとは、私が日本で信じるに足る小説家であってもちろん小説についてのことだろうと思う。ぼくは彼の友人の哲学者、思想家と二人、それから、あとはほかならぬ保坂さん自身。この三人だけが尊敬できる、というようなことを、どこかに書いていたと思うが『小説修業』の中であったかもしれない。この一つはいかにも疑わしい。もちろん彼を除いての二人はどうでもいい。その証拠とは何であるか。しかし、冷静になると疑っている私の方がおかしいのかもしれない。なぜ冷静になるとなっとくできそうになるというのは我ながら不思議だ。
小島信夫『残光』を読んでいると、こういう一読しただけでは意味がすっと頭の中に入ってきにくい文章にちょくちょく行き当たって、そのたびにわたしは幾度も読み返し、その箇所を幾度も読み返すあまり、それまでの展開を見失ってしまうのだった。齢九十をこえる高齢ゆえの、いわば晩年の武者小路実篤化と思う人もいるかもしれないけれど、それは違う。なんとなれば、小島信夫は若い頃からこんな文章を書く作家だったからだ。
どうして、浜仲が、あの山下という女性と会っているのだろう。彼は、終戦後、私が北支那方面軍司令部から、ひきあげてきたあと、あそこで、彼は彼女に会った。
文章が文体になっていこうとする過程。言葉が小説になっていこうとする過程。小島信夫の決して読みやすくない文章や、自分の記憶の周辺をめぐっているかのように反復される同じ出来事をたどっていくうち、完成された作品を読んでいるのではなく、作品が生まれ出づる生成途上の現場に立ち会っているかのような錯覚を覚えてしまう。思うに、たとえ錯覚であったとしても、それは大変稀有な体験なのではないだろうか。
『残光』という小説は、ここ数年の身の回りに起きた出来事と、青山ブックセンターで保坂和志とトークショーを行った際、保坂さんが小島さんの『寓話』『菅野満子の手紙』を取り上げ、そのどこが素晴らしいのかを語った言を受け、小島さん自らすっかりどんなものだったか忘れてしまっていた旧作をひもとき、引用し、自己批評する思考過程を報告した私小説になっている。しかし、それはよくある老境小説なんかではない。たしかに、肉体の衰えは顕著だ。本も友人に代読してもらう有様だ。でも、魂は枯山水の境地とは真逆。非常に粘り強いのである。
保坂さんが電話で何気なく口にした言葉にも、施設に預けている老妻がかつて散歩中に見せた振る舞いにも、自分が書いた作品にも、小島さんは常に新鮮な驚きと好奇心をもってにじり寄り、自分が納得するまでは決して考えることをやめようとしない。その点において、この高齢作家は若い。いや、幼い。呆れるほど、目が、頭が濁っていないのだ。
この世界にはわかりやすい物語が溢れかえっている。わかりにくい事どもをわかりやすい言葉に言い換えてしまう人で溢れかえっている。でも、一方で、わかりやすい物語や言説に首をひねる人もいる。この世には自分にはわからないことが有象無象とある、そのことをわかりたがる人もいる。小島信夫の文体と小説は、そんな人たちのためにある。
ぼくは今日はだめだ。ぼくもダメだ。眼だけでなくアタマもダメになったみたいだな、あしたの朝思いだせなかったらどうしよう、この原稿が書きつづけられるかな!
書き続けていただきたい。
【この書評が収録されている書籍】
毎日新聞 2005年3月号~2012年5月号
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