生きているかのように語られる16人
明治から昭和にかけての作家の生涯と作品を溶け合わせるかのように語られた全十七篇、一行四十字詰め十七行で組まれた、文庫版七六五頁(ページ)に及ぶ大著である。初出は複数の季刊誌と月刊誌を乗り継いだ複雑な連載のかたちをとっており、しかも一九六七年七月から七四年三月までの長期にわたっている。それが全三巻の新潮選書(七二年に二冊、七五年に一冊)にまとまり、八五年に合本として潮文庫に収録された。本書はこの潮文庫を底本とし、『潮』七三年三月号で行われた山崎正和、柄谷行人との鼎談(ていだん)を併録したものである。
扱われている作家は、森田草平、徳田秋聲(しゅうせい)、夏目漱石、森鷗外、有島武郎、島崎藤村、二葉亭四迷、岩野泡鳴(ほうめい)、高浜虚子、田山花袋、徳冨蘆花、石川啄木、正岡子規、夏目漱石(続)、泉鏡花、近松秋江、宇野浩二の総勢十六名。彼らの実人生と虚構のなかの場面を双方向に出し入れする自在な筆がうるおうのは、男女の機微、嘘と誠、家族や第三者による小さな証言に、生活全体をゆるがすきな臭さをかぎつけた時である。活字でしか知らない書き手がまるで生きているかのように、おまえの弱さはこういう点ではないかと、遠慮なしに問いかける。
あちこちに卓見がある。冒頭に置かれた森田草平は小島と同郷の作家だが、「言葉の奥に、何か恥かしさが瀰漫(びまん)していて、下手にふれると、切りかえしてくるところがある」岐阜弁と、「とりとめのない平地」の人の特徴を語りながら、漱石の弟子にしかなれなかった草平の限界を指摘し、平地生まれでない藤村や、草平の方言を耳で聞いていた師の漱石の文学の一端をも浮かびあがらせる。
徳田秋聲の文学を、背の低さと結びつけ、自分より上背のある女性との関係に意味を与えるあたりも独特だ。秋聲は「人間の営みというものは、第三者にとってみれば、茶の間のきこえてくるお話にすぎない、と感じる一種の冷酷さというもの」を備えていた。さもしく、憐れで、悶々(もんもん)とした時、かんしゃくをおこし自棄になる時、日々の亀裂に秋聲は非凡な観察の眼を走らせる。
他の作家の三倍の言葉が費やされた宇野浩二については、毀誉褒貶(きよほうへん)の対象になる愚直さを超えた「純な心」を持ち、シンプルにものを見た書き手であると評価する一方、それが大家になれなかった原因でもあると断じるのだが、悪口を書いているのか褒めているのか判然としないその口調には不思議な愛が感じられる。これだけの面子(めんつ)を扱って堅苦しい近代文学史にならないのは、紹介された作家たちがいつのまにか厄介な親族に似た存在のようになっているからだろう。
要するに本書は評伝ではなく一篇の長篇小説なのだ。逸話の膨張ぶりはもとより、すぐ横道にそれていく語り口、そして先人の研究からこぼれた、人生において「一番何でもないこと」「平凡なこと」への執拗(しつよう)なまなざしがつくりだす空気は、このあと小島信夫自身が書き継いでいくことになる長篇小説のそれに酷似している。おそらく、この一連の散文がなかったら、一九八〇年代以後の小島信夫の、「とりとめのない平地」のような小説は存在していなかっただろう。画期をなす創作として、二読三読を推奨したい。