師と出会い「魔術の虜」に
人生の途次においてすでに運命という言葉を使いたくなるような出会いがある。著者と小島信夫の場合もその一例だろう。ふたりがはじめて顔を合わせたのは一九五七年の夏、アメリカのアイオワ大学の教授宅でのことである。小島信夫は五五年に「アメリカン・スクール」で芥川賞を受賞し、ロックフェラー財団の招きで同大に来ていた。他方、著者は五二年に渡米し、カリフォルニア州サンノゼ州立大学で学んだのちアイオワ大の詩の創作教室に移って間もない頃だった。
二十七歳の青年の学生寮に、四十二歳の作家は学外に借りた部屋から毎日のようにやってくる。薄暗い部屋で、著者が授業から帰るのをじっと待っていたこともあった。宿題を多く課せられている学生には迷惑このうえなかったが、小島信夫といると、「親しい身内の人間と一緒にいるような安らいだ気持ち」になったという。物怖じしない若者は作家の出世作の欠点を指摘し、作家は若者が書いた詩の日本語の古さを難じた。
日本での再会を約して作家が帰国すると、若者はアメリカでのキャリアを捨てて欧州各国をまわり、パリで一年近く働いたのち、六二年に帰国、その夏の終わりに、小説にも登場する東京・国立市の家を訪ねて再会を果たした。大学教授でもあった作家の紹介で英語教師として同僚となったばかりでなく、妻を亡くし、二人の子を抱えて不安定な日々を送っていた彼の家に、乞われて下宿する。六三年秋から翌年夏までの約半年。「周りが何をしようと関係なく生きていく」著者のような人が、この時期、小島信夫には必要だった。
下宿料を求める代わりに、家主は朝晩の食事を作ってくれた。夕食後は小説談義で、文壇ゴシップや女性の話も濃厚になされた。晩年の小説の重要な登場人物になる息子の様子や、二人目の妻との出会いについて間近で観察し、「小島魔術の虜」になったアメリカ帰りの青年は、二年後、『抱擁家族』の登場人物のなかに自分の影を見出すことになる。
そのあいだに、著者は小島信夫の指導のもとで小説を書きはじめる。師の訓えは意外にも「『自分』を書け」だった。「自分が関心を持つ限り、どんなことでも背後には自分の重要な問題が隠されている」。他者を描いても結局自分に返ってくる。その自分をいかに摑むか。
『別れる理由』を頂点とする全盛期の小島文学に張り付いていた「書くことの不安定さ」と、それを克服するための「心張り棒のようなもの」の模索の跡を追いながら、著者はもっぱら師のために小説を書き、八八年、「長男の出家」で芥川賞を受賞する。一報を受けた師は、「そんなことってあるのかね」と述べたという。
九十歳を超えた著者は、小島作品への不満も素直に記す。しかし、それが「小島魔術」を脱した証しになるかと言えばそうでもない。心霊研究でも知られる著者は、二〇〇七年四月、交霊会で死後半年経った師の霊を呼び出し、「生前はずいぶんお世話になりました」と語りかけた。師は答えた。「昔、父親だったから」。最初の出会いで感じた親しみの理由は、はたしてそこにあったのか。運命の謎は解決していない。まだ掌(てのひら)にあたたかく残されている。