すべては言語で表現できる
本書『耳のなかの魚』は、イギリス生まれでアメリカ在住のフランス文学者であり、またジョルジュ・ペレックの傑作にして翻訳が困難な『人生 使用法』の英訳者でもある、著者ディヴィッド・ベロスによる幅広い話題を扱った翻訳論である。……と、こう紋切り型に要約してみると、たちまち考えてみたくなる問題がいくつも浮かんでくる。まず、ディヴィッド・ベロスの著作で翻訳紹介されているのは、代表作とされるペレックの伝記であり、『レ・ミゼラブル』論である。しかし、ペレックやイスマイル・カダレの翻訳者としての仕事は、当然ながら、日本では知られていない。「日本の文芸翻訳者は、英米の作家とほぼ同じ社会的地位にある。多くの作家・翻訳者はよく知られており、彼らを取り上げた、著名人ゴシップ本的要素をもつ『翻訳家列伝101』まで刊行されている」と本書にはある。その記述が当たっているかどうかはさておき、それとはまったく対照的に、日本語以外の言語間の翻訳者はほとんど見えない存在である。これは翻訳につきものの非対称性というべき性格だろう。ディヴィッド・ベロスは文学研究者でもあるので、翻訳を論じたこうした評論が読めるからまだいい。しかし、たとえば、アルフレッド・ジャリの『ユビュ王』に始まって、レイモン・クノーの『文体練習』など多数のフランス文学(特に前衛的な作品)の英訳を手がけたバーバラ・ライトは、ほぼ専業の翻訳家であり、その訳業は大きな影響力があったはずだが、その仕事が日本に翻訳紹介されることはもちろんない。そうした翻訳家の仕事にもっとわたしたちが目を向けることはできないものか。
もうひとつの問題は、本書が翻訳論の翻訳であること。いや、こう言うのも不正確なので、副題に「翻訳=通訳をめぐる驚くべき冒険」とあるように、本書で議論の対象になっている「トランスレーション」という言葉は、日本語の翻訳という言葉では置き換えられない意味の広がりを持っている。本書には、「トランスレーション」の下位分類として、日本語では「全訳」「完訳」「初訳」「旧訳」「新訳」「重訳」「定訳」「名訳」「拙訳」「悪訳」「共訳」「下訳」「直訳」「逐語訳」「意訳」「対訳」そして「超訳」といった語まであることが紹介されている。こうして、わたしたち日本の読者が、本書を読み進めていく途中でつねに意識することになるのは、英語をはじめとするさまざまな言語と日本語のありようの違いである。
しかしそれは決して、バベルの塔の崩壊以降に、人々が互いに通じないような言語をしゃべるようになって世界に混乱が広がったというような、悲しむべき事態を意味しない。むしろその逆で、「どこかの人間集団が、隣の街区の子どもたちや、丘の向こう側の人たちは話しかけてみる価値があるかもしれないという素晴らしい考えを思いついたとき、翻訳=通訳は生まれる」と著者は強調する。この「翻訳」観は感動的ですらある。その意味で、この『耳のなかの魚』という英語で書かれた「翻訳」論が、翻訳者による日本語への翻訳によって、多くの日本の読者に届けられ、読まれて理解されるということじたい、ひとつの奇跡のようにも思えてくる。
本書は、翻訳をめぐる書物にありがちな、翻訳の技術論ではない。なるほどたしかに、ペレックの『人生 使用法』をどう訳したかという話はあるが、それはなにも自慢話ではなく、一人の翻訳家が実践の場でどうふるまったかという具体的な報告の一例にすぎない。本書の議論の中心はあくまでも、すでに広範囲に及んでいる人間の言語活動としての「翻訳」にまつわる基本的な問題を幅広く取り上げ、それを時代的にも地域的にも広い視野に立って記述することにある。従って、それは現代の英語中心主義という狭い視野からは、最も遠く離れた立場に立脚している。
そしてベロスの「翻訳」論の最大の美点は、どれほど堅苦しい話題を扱っていても、記述が自由闊達でしなやかであること、そしてさらには、それがいろいろな点で旧弊を脱して自由であることだ。そこでは、翻訳に関するこれまでのさまざまな固定観念がさわやかに否定される。「直訳」か「意訳」かという、従来よくある議論も、「直訳」なるものがそもそも存在しないという理由から一蹴される。詩こそ翻訳で失われるものだという主張に対しては、すべては言語で表現可能だという反論がなされる。極めつけは、原典に忠実なものがよい翻訳だという基準に対するもので、ベロスは「翻訳者は原典と結婚しているわけではない」とユーモアたっぷりにやり返す。
本書のタイトルになっている「耳のなかの魚」とは、ユーモアSFのシリーズとして有名なダグラス・アダムズの『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出てくる、バベル・フィッシュと呼ばれる、耳の中に入れるとどんな言語でも同時通訳してくれる魚のことであるという。それを踏まえて評するなら、本書はまさしく「目から鱗」の快著だ。