自由への格闘、豊穣な同性愛文化育む
一九〇九年十一月十八日の朝、パリで三二歳のイギリス人女性ポーリーヌ・メアリ・ターンがひっそりと世を去った。彼女はルネ・ヴィヴィアンという筆名で詩集や小説をフランス語で書いた詩人で、アンドレ・ビィが「一九〇〇年のサッフォー、百パーセントのサッフォー」と呼んだように限られた世界では有名人でもあった。著者が伝記執筆を思い立ったのはこの無名と有名の「狭間」ゆえだが、動機はもう一つあった。この女性同性愛詩人について残された証言があまりに矛盾していることである。すなわち、一方に同性愛的ではあるが貞潔な詩を書いた理想的な若い女性と見る証言があるかと思えば、もう一方には「悪魔的で神経症的なサッフォーとして、すなわち典型的にキッチュな一九〇〇年代の悪趣味の権化として思い描く」証言もあったのだ。
この謎から著者の伝記的事実探索の旅が始まる。父はヨークシャー出身の裕福な商人の息子ジョン・ターンで、ロンドンで気ままな年金生活を送っていたが、あるとき旅先のハワイでデトロイト出身のメアリ・ジレット・ベネットと出会い、結婚する。この結婚からポーリーヌと妹が生まれたのである。
裕福なターン家はパリに移住し、最高級住宅街であるボワ・ド・ブーローニュ大通りの建物に居を定めた。同じ建物にはアメリカ・シンシナティの大会社の支店長シリトーの一家が住んでおり、幼いポーリーヌはシリトー家の長女ヴィオレット(ヴァイオレット)と親友になる。
だが、ポーリーヌの運命は九歳のときに父が急死したことで大きく変わる。寡婦となったターン夫人は使用人に娘たちの世話を任せ、男性同伴でヨットクルーズに出掛けるなど自由奔放な生活を送るようになったからだ。
ポーリーヌは常にひとりぼっちだった。彼女はついには母が手に負えない誘惑者であり、自分を打ち棄てたのだと考えるようになった。男性たちについては、自分から母を奪った悪魔だと考えていた。
ポーリーヌの嫌悪は男性ばかりか一三歳から暮らしたイギリスにも向けられた。偽善的なヴィクトリア朝の道徳をポーリーヌは激しく憎むようになったのだ。こうした嫌悪の中から詩人ルネ・ヴィヴィアンが誕生してくる。
生まれ故郷と、母語と、そしてとりわけ自らの家族とどうしたら縁を切ることができるのだろうか。若きルネ・ヴィヴィアンにとってはそれが問題だった。彼女は抜本的な解決策を見出した。パリに住み、フランス語の筆名を用い、フランス語でのみ書くのである。それは真の断絶としての選択であった。
この選択は一三歳まで思春期を過ごしたフォンテーヌブローの私塾の寮の記憶の回復でもあった。英米系の少女たちが学ぶフォンテーヌブローの私寮でポーリーヌは天才少女ヴィオレット・シリトーと再会し、文学や語学、音楽などの手ほどきを受けると同時にブルジョワや男性に対する嫌悪の感情も共有した。とはいえ二人の友情は同性愛には発展しなかった。ポーリーヌも一八九〇年から九九年まではロンドンで母親とイギリス社会の桎梏に苦しみながらアメデ・ムレという五〇代の男性詩人と文通し、失恋を経験する。
大きく状況が変化するのは一八九九年頃にパリに戻ってからである。「彼女はついにひとりで、自由になったのである」。完全なる自由の中でポーリーヌはルネ・ヴィヴィアンに変身してゆく。その決定的な契機となったのは、ヴィオレット・シリトーのシンシナティ時代の幼友達で、後にパリにレズビアン・ソサエティを形成して「レスボスの女王」と呼ばれるようになる二二歳のナタリー・クリフォード・バーネイがパリに戻ってきたことだった。ブーローニュの森の小道でヴィオレットと再会したナタリーは親友であるというヴィヴィアンに激しく興味をそそられた。いっぽうヴィヴィアンもナタリーに出会った瞬間に魅了された。小説『一人の女が私の前に現れた』でヴィヴィアンはこう書いている。「彼女の瞳は刃物の歯のように、鋭く青かった。(中略)危険な魅力が彼女から漂って来て、私を激しく惹きつけた」
こうしてヴィヴィアンとナタリーの蜜月時代が始まるのだが、やがてヴィヴィアンがもう一人のレスボスの女王であるエレーヌ・ド・ジュイレン女男爵の恋人となるに及んで関係は破局する。しかし、ヴィヴィアンがナタリーとの恋愛体験から生み出した詩集や小説はレズビアン文学の嚆矢(こうし)として評価されるようになる。やがて、古代ギリシャの女性詩人サッフォーに入れあげたヴィヴィアンはナタリーとよりを戻してレスボス島を訪れて別荘を借り、幸福を満喫するが……。
最後は日本文化に憧れ、日本の土を踏むことにもなる夭折の女性詩人の評伝でありながら、ベル・エポックのパリに集まった才能豊かな英米のレズビアンたちによって醸成された「もう一つの文化」の神髄も伝えてくれる優れた文化研究である。