書評
『悲望』(幻冬舎)
大好物のだめ男がわんさか登場する近代小説を愛読する者なのですが、往時の私小説作家にはしかし、非モテの視線が欠けているのが二十一世紀人としては少し物足りなかったりもするんであります。昔のだめんずは自分のキモさに対する自覚が希薄で、存在の耐えられない残酷さに正対してない。つまり、キモメンは何をしてもキモイんだし、イケメンは何をしてもイケてるという真理と、本当の意味では向かい合っていない。それが近代文学におけるだめ男諸君の限界だと、わたしは思うのです。その意味で、小谷野敦初めての小説作品「悲望」は新しい。私小説という古い革袋に、容姿至上主義があられもない形で表出してしまった現代における新しい生き地獄という酒を入れて、うまいんだかまずいんだか強いんだか弱いんだかわからない、そんな小説になっているからなんであります。
どうです? こんな抜粋程度でも〈私〉の気持ち悪さはわかっていただけましょうし、作者がどれだけ真面目に己のキモさと対峙しているかが伝わるんではないでしょうか。
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これは、(本人の弁を信じるなら)東京大学大学院生時代の著者の三年間にわたる片思いという病理の諸相を、冷静かつ赤裸々に振り返った作品なのですが、「文學界」掲載時に読んだ時、わたしは幾度も残酷かつ無責任な笑い声を上げたものでした。身も心も童貞の語り手が、女性は執拗に言い寄れば口説けるという巷のハウツーを真に受け、篁響子という高嶺の花にアタック。どんなに拒絶されても諦めず、留学先のカナダにまで追いかけていくストーカー然とした片思いの顚末が綴られているのですが、そうした自身の危うさや気持ち悪さを作者が自覚しており、明文化しているのがこの作品の面白さなのです。
〈十二月三十日、私は篁さんに電話を掛け、これに一緒に行きましょうと誘ったのである。彼女は、「あ、こないだ、クリスマスカード、ありがとうございました」と弱々しい声で言い、私の誘いには渋った〉
〈私は、中学生の頃から、自分を「ぼく」とは言わない。ところがこの時、意識して「ぼく」を使うようにした。それは、これから篁さんに「愛の告白」をするなら、その時は「ぼく」でなければならない、と思ったからでもある〉
〈(筆者註=篁さんにつきあっている人がいると聞いて電話をかけ)「あの……篁さん、こんなことになってしまって、本当に残念だけれど、私は、あなたが好きでした、ということを、一言言いたくて」(略)「本当に残念だけれど、もう少し早く出会えていれば、何とかできたかもしれないのに……」〉
〈自分を奮い立たせて書き上げた二枚程度の「ラヴレター」は、まるでピンク色の化物だった。「天秤座のあなたの天秤の片方にあなたの片思いがたくさん乗っているなら、もう片方に私の思いを乗せて天秤を水平にしてあげます」(略)翌日、正気に返った〉
〈あちらは、怖気を振るうばかりだろう。(略)けれど、それでラヴレター攻勢をやめるつもりはなかった。私は、彼女はまだ拒否の言葉を口にしていない、と自分に言い聞かせていた。そうである以上、私はこうした手紙を書きつづける権利があると〉
〈「あなたの手紙は、気持ち悪いんです!」「いや、最初のはひどかった、けど……」(略)「あなたの人格から出てるんです」人格を否定されてしまった〉etc.etc.
どうです? こんな抜粋程度でも〈私〉の気持ち悪さはわかっていただけましょうし、作者がどれだけ真面目に己のキモさと対峙しているかが伝わるんではないでしょうか。
で、女性に質問です。これらすべてを行ったのが、もしV6の岡田くんだったら? 妻夫木聡くんだったら? この小説は容姿格差社会における貧者の悲憤をも描いて、少なくとも(やはり貧者の)わたしには黒くて苦い笑いと共感を伴う歪んだ傑作なんであります。
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