書評
『グランド・フィナーレ』(講談社)
もーっ、がっかりだよがっかりだよ、がっかりだよの一億光年倍だよっ。
いや、何がって、あなた、阿部和重の芥川賞受賞作品『グランド・フィナーレ』(講談社)ですよ。「群像」一月号の創作合評で、とんちんかん子ちゃんの大道珠貴から「主人公の、やめられない止まらないロリコンの魅力を教えてもらえれば、もっと主人公の気持ちになれたと思う。ならなくていいのかもしれませんが」って評された『グランド・フィナーレ』に対する世評の低さですよ。受賞作が掲載される「文藝春秋」より早く単行本化されたっつーのに、売れ行きかんばしくないってんだから、何をかいわんや日本国民においてをや。頼むから読め、読めにして買え。モブの介護小説よりも売れなかったら泣くよ、てゆーか暴れるよ、環境破壊してやるよ。そんな所存ですよ、そうですよ。
主人公は、自分の娘はおろか近所の女児のヌード写真を撮り、教育映画に携わる立場を利用してめぼしい子を少女ヌード写真雑誌に斡旋するばかりか、そのうちの一人とはセックスまでしてしまったようなヤツ。離婚された後も愛娘と接触したい、できれば一緒に暮らしたいと願っているこのバカは、しかし、自分を〈古くさくて凡庸な下司野郎〉だと反省する程度の自己認識は持ち合わせている。実際、故郷の神町に戻ってからの〈わたし〉は、子供会主催の芸能祭に出たいと願う仲良し女児コンビに出会って以降の展開においては、“贖罪”という言葉がふと浮かぶくらいの殊勝さを見せるのである。兄が人を殺してしまったために町に居づらくなり、引っ越すことが決まっている亜美。亜美がいじめにあうようになっても親友であり続けた麻弥。最後の思い出を作るために二人芝居を上演したいと訴える彼女らの熱意に打たれ、演出指導を引き受けた〈わたし〉はなけなしの貯金をはたいてでも立派なステージにしてやろうと思う。たしかに、これだけの情況説明なら芥川賞決定直後のNHKのニュースで紹介された粗筋のように、ロリコン野郎が〈現実とのつながりを取り戻していく〉話にも読めましょう。が、しかし、そうは問屋が卸さない。こいつは単に別のステージに進んだだけなんじゃないか? そんな不穏な気配を、作者はいい話の中に漂わせるのだ。
自殺マニュアルというタイトルのウェブサイトをのぞく亜美と麻弥を目撃した〈わたし〉は、二人を死なせてはいけないと使命感をたぎらせる。〈この一年間、わたしの人生は鼻をかんだあとのちり紙みたいなものだったが、(中略)使用済みの乾いたちり紙が使い物になるのか否か〉実験してみようと思った〈わたし〉は自殺を止まらせるためのクリスマス・パーティを目論むのだ。少女を搾取してきた男が、今度は彼女たちのキャッチャー・イン・ザ・ライになろうとする、この回心の薄気味悪さはどーよ。愛娘にプレゼントしながら、妻によって突っ返されてしまい、以降常に主人公のそばにいる音声学習機能付きのぬいぐるみ、ジンジャーマンが発する最後の台詞の向こうに控えているはずの“グランド・フィナーレ”。それがハッピーエンドとは、とても思えない。
『ニッポニアニッポン』『シンセミア』に端を発する神町サーガの一篇であるこの物語の顚末は、おそらく今後書かれるであろう別の作品の中で噂話として明かされるに違いない。〈わたし〉が一体何をしでかしたのか――。その愉しみで、今後も阿部作品から目が離せないオデなんである。万民もそうであれかし。
【この書評が収録されている書籍】
いや、何がって、あなた、阿部和重の芥川賞受賞作品『グランド・フィナーレ』(講談社)ですよ。「群像」一月号の創作合評で、とんちんかん子ちゃんの大道珠貴から「主人公の、やめられない止まらないロリコンの魅力を教えてもらえれば、もっと主人公の気持ちになれたと思う。ならなくていいのかもしれませんが」って評された『グランド・フィナーレ』に対する世評の低さですよ。受賞作が掲載される「文藝春秋」より早く単行本化されたっつーのに、売れ行きかんばしくないってんだから、何をかいわんや日本国民においてをや。頼むから読め、読めにして買え。モブの介護小説よりも売れなかったら泣くよ、てゆーか暴れるよ、環境破壊してやるよ。そんな所存ですよ、そうですよ。
主人公は、自分の娘はおろか近所の女児のヌード写真を撮り、教育映画に携わる立場を利用してめぼしい子を少女ヌード写真雑誌に斡旋するばかりか、そのうちの一人とはセックスまでしてしまったようなヤツ。離婚された後も愛娘と接触したい、できれば一緒に暮らしたいと願っているこのバカは、しかし、自分を〈古くさくて凡庸な下司野郎〉だと反省する程度の自己認識は持ち合わせている。実際、故郷の神町に戻ってからの〈わたし〉は、子供会主催の芸能祭に出たいと願う仲良し女児コンビに出会って以降の展開においては、“贖罪”という言葉がふと浮かぶくらいの殊勝さを見せるのである。兄が人を殺してしまったために町に居づらくなり、引っ越すことが決まっている亜美。亜美がいじめにあうようになっても親友であり続けた麻弥。最後の思い出を作るために二人芝居を上演したいと訴える彼女らの熱意に打たれ、演出指導を引き受けた〈わたし〉はなけなしの貯金をはたいてでも立派なステージにしてやろうと思う。たしかに、これだけの情況説明なら芥川賞決定直後のNHKのニュースで紹介された粗筋のように、ロリコン野郎が〈現実とのつながりを取り戻していく〉話にも読めましょう。が、しかし、そうは問屋が卸さない。こいつは単に別のステージに進んだだけなんじゃないか? そんな不穏な気配を、作者はいい話の中に漂わせるのだ。
自殺マニュアルというタイトルのウェブサイトをのぞく亜美と麻弥を目撃した〈わたし〉は、二人を死なせてはいけないと使命感をたぎらせる。〈この一年間、わたしの人生は鼻をかんだあとのちり紙みたいなものだったが、(中略)使用済みの乾いたちり紙が使い物になるのか否か〉実験してみようと思った〈わたし〉は自殺を止まらせるためのクリスマス・パーティを目論むのだ。少女を搾取してきた男が、今度は彼女たちのキャッチャー・イン・ザ・ライになろうとする、この回心の薄気味悪さはどーよ。愛娘にプレゼントしながら、妻によって突っ返されてしまい、以降常に主人公のそばにいる音声学習機能付きのぬいぐるみ、ジンジャーマンが発する最後の台詞の向こうに控えているはずの“グランド・フィナーレ”。それがハッピーエンドとは、とても思えない。
『ニッポニアニッポン』『シンセミア』に端を発する神町サーガの一篇であるこの物語の顚末は、おそらく今後書かれるであろう別の作品の中で噂話として明かされるに違いない。〈わたし〉が一体何をしでかしたのか――。その愉しみで、今後も阿部作品から目が離せないオデなんである。万民もそうであれかし。
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