書評

『谷崎潤一郎伝―堂々たる人生』(中央公論新社)

  • 2017/07/28
谷崎潤一郎伝―堂々たる人生 / 小谷野 敦
谷崎潤一郎伝―堂々たる人生
  • 著者:小谷野 敦
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:単行本(445ページ)
  • 発売日:2006-06-00
  • ISBN-10:412003741X
  • ISBN-13:978-4120037412
内容紹介:
三度の結婚、妻譲渡事件、人妻との密通、あいつぐ発禁-スキャンダルに彩られた文豪「大谷崎」の生涯を、従来の「神話」に惑わされることなく描き出す。
谷崎潤一郎のような作家ともなれば、早くから多くの伝記が書かれていた。本書を手にしたときも、真っ先に脳裏をよぎったのはそのことだ。多くの先行書を前にして、果たしてどれほど新味を出せるのか。そう思ったが、杞憂であった。

伝記は時系列の展開が多い。だが、本書の構成はやや違う。大きな流れとしては時代順になっているが、それに加えて横の関連性についても交通整理が行われている。第三章「長男としての潤一郎」は兄弟や家族関係を紹介し、第十章「谷崎をめぐる人々」は周辺の人たちに光を当てた、とりわけ第十四章は意表をつくものだ。谷崎家に勤めた女中や、飼育したペットを調べて、一章を割いて詳細に記した。さらに、女中関連の年譜まで添付されている。従来の伝記のなかに、飼い犬や飼い猫まで詳述するのはほとんど例がないであろう。

作家の伝記がふつう作品批評を中心に据えているのに対し、本書は明治、大正、昭和を生きた作家の人間像を描き出そうとしている。この作家は女性交際が派手で、その肉体的、感情的な体験をあるいはあからさまに綴り、あるいは作品に結晶させた、谷崎潤一郎にかぎって、どうやら艶聞の精査は無用なものではなかったようだ。

谷崎潤一郎の創作に影響を与えた女性として、松子夫人の名がよく挙げられている。谷崎の死後、彼女に取材したり、資料を提供してもらったりする必要があるからか、これまで松子夫人に好意的な伝記が多い。古川丁未子(とみこ)との結婚生活が短いこともあって、新婚当初から谷崎潤一郎の心がすでに松子に移ったと見られ、丁未子との新婚時代に書かれた『盲目物語』『春琴抄』『蘆刈(あしかり)』などの名作は、松子という理想的な女性との出会いによって導かれたものだとされていた。

本書はこの通説をひっくり返した。一九九〇年に発見された丁未子宛書簡や、谷崎の文章を引いて、松子に対する谷崎の恋慕は演出だったとした。すでに作家の地位を揺るぎのないものにした谷崎は、松子に対して絶対的な優位にあり、逆に谷崎から放り出されたら、松子は二人の子を抱えて路頭に迷うほかない。松子への恋文群も谷崎一流の「遊び」に過ぎない。そう考えた著者は、谷崎にとって松子は従来言われたような、理想的な女性ではなく、松子との結婚がまっとうできたのは、重子という気配りの上手な妹がいたからだと主張した。

松子の妊娠中絶についても注目すべき新説を立てた。谷崎潤一郎はジャーナリズムの報道を意識した作家だ。同じ伝記的な事実でも、違う作品で記述が異なることがある。著者は「初昔」を根拠に、中絶手術は谷崎の意思によるものでもなければ、松子が夫の「芸術第一主義」を優先した決断でもない、松子の健康を考慮した医者の勧めによるものだという。谷崎潤一郎の研究者たちがどう応答するかはともかくとして、一読者にとってはかなり興味深い説である。ただ、「初昔」だけに頼ると、どうしても推論という印象が拭いきれない。もし、当時のカルテや医者の証言がえられれば、文句のつけようのない発見になるであろう。

江戸川乱歩との関係を明らかにしたのも大きな収穫だ。谷崎より八歳年下の乱歩は、谷崎の作品を愛読したが、大正期の谷崎作品のうち、まるで乱歩の下手な模倣のように見えるものがある。 谷崎も推理小説を書こうとしたが、江戸川乱歩の小説を読んであきらめた。その結果、谷崎はかえってオリジナルな世界を確立することができた。乱歩があっての谷崎だ。江戸川乱歩という補助線がなければ、そのことが見えてこないであろう。

伝記について、東洋と西洋では考え方がだいぶ違う。『史記』に見られるように、東洋では人物伝が歴史を叙述する権威的な様式であった。天文地理でさえその様式に則って書かれていた.それに対し、西洋では発想がまったく違っていた。アルナルド・モミリアーノによると、ヘレニズム以来の伝統により西洋では伝記が歴史と区別されていた(『伝記文学の誕生』)。十六世紀あたりから、伝記がようやく一種の歴史と見られるようになった。だが、十九世紀になると、この問題をめぐって再び紛糾した。近代日本では論争にならなかったが、伝記作家という言葉からもうかがえるように、伝記は無意識のうちに歴史的叙述と区別されている。

伝記は様式として先天的に小説と親和性を持っている。生き生きとした人間像の描写に重点を置くのか、それとも事実の客観性のみ優先させるのか。それによって、構成も文体も違ってくる。

本書は作家谷崎の一生の描出を目指しているが、そのわりには、細かいデータにこだわり過ぎた感がある。正確さを期するあまり、叙述が瑣末になり、ところどころ年表のような文体になっている。もっとも年譜の編集がきっかけだから、こうなったのもやむをえないのかもしれない。ただ、伝記の楽しみは何といってもその物語性にある。著者の文章力ならば、本来もっと面白く書けたはずだ。読み物として期待していただけに、やや物足りない気がした。

【この書評が収録されている書籍】
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010 / 張 競
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010
  • 著者:張 競
  • 出版社:ピラールプレス
  • 装丁:単行本(408ページ)
  • 発売日:2011-05-28
  • ISBN-10:4861940249
  • ISBN-13:978-4861940248
内容紹介:
読み巧者の中国人比較文学者が、13年の間に書いた書評を集大成。中国関係の本はもとより、さまざまな分野の本を紹介・批評した、世界をもっと広げるための"知"の読書案内。

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谷崎潤一郎伝―堂々たる人生 / 小谷野 敦
谷崎潤一郎伝―堂々たる人生
  • 著者:小谷野 敦
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:単行本(445ページ)
  • 発売日:2006-06-00
  • ISBN-10:412003741X
  • ISBN-13:978-4120037412
内容紹介:
三度の結婚、妻譲渡事件、人妻との密通、あいつぐ発禁-スキャンダルに彩られた文豪「大谷崎」の生涯を、従来の「神話」に惑わされることなく描き出す。

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毎日新聞 2006年8月27日

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