「特異性」と捉えることの危険
「個人主義」「自我」と並んで、「個性」は思想の用語として明治時代にさかのぼる。夏目漱石「私の個人主義」に見られるように、大正時代以降、哲学の問題として、または文学表現の動機付けと関連して語られていたが、教育や心理学の分野ではより注目されていた。時代が下るにつれ、前者の二語は大衆の視野から遠ざかっていったが、「個性」はいまなおさまざまな言説に頻出している。ほんらい小難しい専門用語のはずだが、いつどのように身近な言葉になったか。そのことは長いあいだ問われないままでいた。individualityの訳語として「個性」が脚光を浴びたのは大正時代であった。その背景として、欧米に始まる教育の見直しがあり、その動きは初等教育の段階において国民皆就学が実現した日本にも影響を及ぼした。この時期に、教育実践の改革が模索され、それまでの一斉教授法に対し、「個性教育」が新たに提唱された。
文部省は当初、静観の姿勢を取っていたが、入学難などの問題もあって、一九二七年頃になると、一転して「個性尊重」を掲げる政策を打ち出した。一方、教育指導の現場では生徒の心身状況を把握するために個性調査が行われた。
戦争期をはさんで中断はあったが、一九七〇年代からとくに八〇年代以降、個性に向ける教育的、社会的な関心が再び高まった。教育の自由化が唱えられるなかで、臨時教育審議会答申では「個性の尊重」や「個性の重視」が提唱され、教科指導において個性を大切にすることが掲げられた。
一九八一年、『窓ぎわのトットちゃん』の刊行が象徴的な出来事であった。同書のヒットをきっかけに、個性ブームは再来した。臨教審答申とは経緯が違うものの、受験競争や画一性に対する批判という点では通底している。
大正時代から今日にいたるまで、「個性」の使用例を時系列にたどっていくと、その含意が時代とともにたえず変化し、いまでも揺らぎ続けているという事実が浮かび上がってきた。教育分野での用例分析に立脚しながらも、そのときどきの社会的状況、時代的特徴、言語意味論的な展開を視野に入れての検討はこの難問に立ち向かうときの、有力な手法となった。
障害と個性についての議論においてその方法はとくに力が発揮された。「障害も個性のひとつ」という言葉はいまやすっかり馴染みの文言になったが、この記号配列は同時に一連の問題を炙り出した。「障害も個性」は共生社会の理想を志向し、障害者に希望をもたらす半面、障害の程度によって当人たちの受け止め方は必ずしも同じではない。とりわけ、発達障害の場合、この主張は教育的・社会的配慮への否定につながりかねないし、個性が特異な才能と結びつけて語られるとき、なおさら抑圧の契機を含んでいる。新聞投書の分析を通して、「障害は個性」が孕んだアポリアを可視化することができた。
個性概念の由来とその展開については、これまで教育分野において個別的に論及されてきたが、個性表象について社会史の角度から俯瞰的に把握するのは最初の試みである。個性の精神史を明らかにするためには、幅広い領域への目配りが必要だ。著者は隣接する専門の学識を参照しつつ、多角的な視点から探求したからこそ、全体の見取り図に迫ることができた。