もしも開発に成功していたら…
マッカーサーが厚木に降り立った昭和二〇年八月三〇日に遅れること一週間、九月七日に米軍は、日本の原爆開発計画調査のための一隊を日本に送り込んだ。本書冒頭を飾る文章である。ナチ政権が降伏する前から、アメリカは、イギリスと組んだALSOSという原爆調査団をドイツ各地に送り込み、ハイゼンベルクら研究者を拘束し、施設を点検、文書を押収したこと(ハウトスミット著『ナチと原爆』山崎和夫・小沼通二訳、海鳴社)が思い出される。当時アメリカが核兵器の開発技術の独占に如何に神経を使っていたかが判るだろう。ただ、日本における調査団のとった方法は、明らかにALSOSとは違っていた。日本の開発能力がドイツに比べて割り引かれていたのでは、と推測できる。著者の調査によると、日本における関係研究者のリストが、戦時中のアメリカには出来上がっており、取りあえずは、嵯峨根遼吉と仁科芳雄が調査団の尋問対象とされた。本書は、日本における核物理学の中心にいた仁科と、その研究の実態に迫った好著である。
アメリカのマンハッタン計画は、シラード、アインシュタインら核物理学の専門家たちが政治家を動かして始まったといってよいが、日本では、仁科と陸軍航空技術研究所長安田武雄との会話に始まった、という。昭和一五年、例のシラード=アインシュタインの手紙の日付から一年後のことだ。
計画の出発点となるポイントの一つが、原子核内研究に欠かせない円形加速器サイクロトロンの開発(一九三二=昭和七年)であった。原開発者は、後マンハッタン計画にも参加したアメリカのローレンスで、一九三九年にはノーベル物理学賞を得ている。仁科研究室では一九三七(昭和一二)年に世界で二番目のサイクロトロンを完成させていたのだった。本書第二章は、その経緯に関して、懇切な説明が展開される。
第三章では、サイクロトロンを前提に、核分裂のエネルギーを取り出すプロセスに関して、世界の状況が語られ、それを受けた日本の仁科を中心とした開発研究の有様を記したのが次章ということになる。戦争終結とともに、現場での資料の相当部分が焼却されているので、資料探索・発掘には困難が伴ったはずである、マンハッタン計画の方は、ドイツの開発能力が高く見積もられた結果だった(実際には、ナチスの首脳部は核兵器に関しては、決定的な積極性を示さなかったし、アメリカの諜報機関はその点を充分理解していたはずだが、むしろ、ドイツの能力を、アメリカの当事者が故意に過大評価したと推測される)。日本では、仮に爆弾開発に成功したとしても、それをアメリカ本土へ運んで爆発させる能力は、全くなかったというのが実際のところだろう。指導的物理学者グループも、自分たちの実現可能性はおろか、アメリカのそれについても、否定的だったという。その間に、アメリカは、広島、長崎の蛮行へ走る。仁科は、直ちに広島へ赴くはずだったが、交通のトラブルで果たせず、しかし、秘書の言によれば、直ちに原子爆弾だ、と述べたと伝えられる。仁科は、責任感からか、被爆の状況の報告書の作成にも力を尽くした。