書評

『エリザヴェータ・バーム/気狂い狼 オベリウ・アンソロジー』(書肆侃侃房)

  • 2025/11/09
エリザヴェータ・バーム/気狂い狼 オベリウ・アンソロジー / ダニイル・ハルムス
エリザヴェータ・バーム/気狂い狼 オベリウ・アンソロジー
  • 著者:ダニイル・ハルムス
  • 翻訳:小澤 裕之
  • 出版社:書肆侃侃房
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(496ページ)
  • 発売日:2025-09-05
  • ISBN-10:4863856814
  • ISBN-13:978-4863856813
内容紹介:
ダニイル・ハルムスの原点、伝説のグループ「オベリウ」の全貌がついに明らかになる──。100年前、20歳前後の若者たちによって結成された「オベリウ」(ОБЭРИУ)は、20世紀前半のロシアにおけ… もっと読む
ダニイル・ハルムスの原点、伝説のグループ「オベリウ」の全貌がついに明らかになる──。

100年前、20歳前後の若者たちによって結成された「オベリウ」(ОБЭРИУ)は、20世紀前半のロシアにおける文学的実験の極致をきわめた。ダニイル・ハルムスの「エリザヴェータ・バーム」「出来事」新訳、これまで未邦訳だったニコライ・ザボロツキー「気狂い狼」、コンスタンチン・ヴァーギノフ「スヴィストーノフの仕事と日々」、レオニード・リパフスキー「水論」など、この伝説のグループ周辺12名の代表作を網羅した世界初のアンソロジー。

「本書に訳出するのは、「オベリウ」と「チナリ」に縁の深い者たちの作品である。どちらのグループにも所属したハルムスとヴヴェジェンスキーは、その反伝統的な作風がロシア国内外で比較的早くから注目され、著作集や全集が刊行されてきた。しかしふたり以外の作品は、ザボロツキーを除き紹介が遅れた。「オベリウ」アンソロジーは、すでに1991年にロシアで、2006年にアメリカで刊行されているが、どちらも「オベリウ」のメンバー(オベリウ派)を網羅しているわけではなく、必ずしも代表作を採っているわけでもない。そこで本書には、レーヴィンやウラジーミロフといった、ロシアでさえほとんど知られていないマイナーなオベリウ派に、「チナリ」のメンバーも加え、それぞれの代表作をなるべく多く収録した。したがって、現時点では本書が世界で最も包括的な「オベリウ」アンソロジーといってよい」(本書「はじめに」より)

「オベリウ派――彼らはそう名乗っている。この言葉は、リアルな芸術の結社のことだと理解されている。この嘘くさい大仰な名前は、レニングラードのちっぽけな詩人グループが勝手に詐称しているものである。連中はほんの僅かだ。片手で指折り数えることができる。その創作ときたら……。」(オベリウに対する批判記事「反動的曲芸」より)

◎オベリウとは?
20世紀前半のロシアにおいて、「ロシア・アヴァンギャルド」と後に称される前衛芸術運動が興隆する。その寿命は短かったが、落日の間際、未来をも貫く鋭い光芒を放つ。それが「オベリウ」である。1927年に若者たちの手で結成されたこのグループは、「反革命的」と批判され数年で瓦解するものの、メンバー(オベリウ派)は創作をつづけ、ロシア文学史上きわめてユニークな作品を残した。また一部のオベリウ派は「チナリ」にも属していた。これは「オベリウ」と異なり閉じられたグループで、仲間たちは頻繁に集まりさまざまなテーマについて話し合った。そこでの会話がしばしば創作のヒントになっている。「オベリウ」も「チナリ」も長く忘却されていたが、20世紀後半から、ロシア文学史におけるミッシング・リンクとして世界的な注目を集めだす。両グループのメンバー全12人の創作を1冊に纏めた本書によって、その全貌がいま初めて一望のもとに置かれる。

命がけの言葉遊び、現実との戦い

赤毛の男がいた。彼には目と耳がなかった。髪もなかったから、赤毛と呼ぶのはここだけの話。/話すことが彼にはできなかった。というのは、口がなかったから。鼻もなかった(……)なんにもなかった!

本書の冒頭を飾る「青いノート№10」は、こんな風に始まる。じつはあと2行で急転直下、人を喰(く)ったとんでもない終わり方をするのだが、気になる方はぜひ本を手に取っていただきたい。この変てこな超短編小説を書いたのはダニイル・ハルムスといって、オベリウという前衛作家グループを代表する人物だ。

「オベリウ」とは一九二〇年代末ソ連のレニングラード(現サンクトペテルブルク)に突然現れた若い前衛作家たちのグループだ。ロシア語で「リアルな芸術の結社」を意味する名称から、ことさら奇妙に響くことを狙って作られた新造語である。

本書はこのオベリウとそれに関連した「チナリ」というグループのメンバーをあわせ計十二人の「変な男たち」の作品を集めたアンソロジーである。収録された作品は、詩、戯曲、宣言、小説、回想などじつに多彩。たとえばハルムスの戯曲「エリザヴェータ・バーム」は、主人公の女性が全く身に覚えのない殺人の嫌疑をかけられて逮捕されそうになるというカフカ的な不条理な設定に基づく。一方、ヴヴェジェンスキーの『イワーノフ家のクリスマス』には一歳から八二歳の「子どもたちあるいはただの悪魔」が登場し、そのうち一人は子守り女に首を切り落とされ、他の全員も最後に次々に死んでいく。どちらも常識的なプロットの展開も因果関係も無視した曲芸的なもので、世界の前衛演劇のトップを切るものだったろう。ちなみに本書に収録されたドゥルースキンの回想では、ハルムスとヴヴェジェンスキーのどちらも「無意味の星」を追求したと評されている。つまり現実に潜むナンセンスの深淵(しんえん)との闘いが、彼らの芸術だったということか。

オベリウは全員が十代から二十代の若者だった。しかしスターリン時代に主要メンバーは逮捕され、餓死したり銃殺されたり戦死したりで、彼らの記憶はソ連ではその後長いこと封印された。本書はオベリウとチナリの人間関係に注目しながら、初めてグループの全体像を描き出した点で画期的なアンソロジーである。長年オベリウ研究に打ち込んできた小澤裕之氏の強い思い入れが感じられる一冊だ。常識的な意味を超えたナンセンスな表現や不可解な新造語のちりばめられた作品を翻訳することは、容易ではない。しかし訳者は原文のニュアンスに密着し、奇妙な面白さを日本の読者に伝えるという難題に挑戦した。

オベリウはロシアの未来派を受け継ぐ、欧米から隔絶したソ連国内の現象であったにもかかわらず、西欧の不条理演劇をはるかに先取りし、同時代フランスのシュルレアリスムにも比べられるような可能性を秘めていた。しかし、決定的に異なるのは、オベリウの若者たちの生きたのが表現の自由を圧殺するソ連のスターリン体制下だったということである。彼らの言葉遊びの一つ一つが、じつは文字通り命がけのものだった。百年後の今でも、彼らの言葉に力が感じられるのもそのせいではないか。
エリザヴェータ・バーム/気狂い狼 オベリウ・アンソロジー / ダニイル・ハルムス
エリザヴェータ・バーム/気狂い狼 オベリウ・アンソロジー
  • 著者:ダニイル・ハルムス
  • 翻訳:小澤 裕之
  • 出版社:書肆侃侃房
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(496ページ)
  • 発売日:2025-09-05
  • ISBN-10:4863856814
  • ISBN-13:978-4863856813
内容紹介:
ダニイル・ハルムスの原点、伝説のグループ「オベリウ」の全貌がついに明らかになる──。100年前、20歳前後の若者たちによって結成された「オベリウ」(ОБЭРИУ)は、20世紀前半のロシアにおけ… もっと読む
ダニイル・ハルムスの原点、伝説のグループ「オベリウ」の全貌がついに明らかになる──。

100年前、20歳前後の若者たちによって結成された「オベリウ」(ОБЭРИУ)は、20世紀前半のロシアにおける文学的実験の極致をきわめた。ダニイル・ハルムスの「エリザヴェータ・バーム」「出来事」新訳、これまで未邦訳だったニコライ・ザボロツキー「気狂い狼」、コンスタンチン・ヴァーギノフ「スヴィストーノフの仕事と日々」、レオニード・リパフスキー「水論」など、この伝説のグループ周辺12名の代表作を網羅した世界初のアンソロジー。

「本書に訳出するのは、「オベリウ」と「チナリ」に縁の深い者たちの作品である。どちらのグループにも所属したハルムスとヴヴェジェンスキーは、その反伝統的な作風がロシア国内外で比較的早くから注目され、著作集や全集が刊行されてきた。しかしふたり以外の作品は、ザボロツキーを除き紹介が遅れた。「オベリウ」アンソロジーは、すでに1991年にロシアで、2006年にアメリカで刊行されているが、どちらも「オベリウ」のメンバー(オベリウ派)を網羅しているわけではなく、必ずしも代表作を採っているわけでもない。そこで本書には、レーヴィンやウラジーミロフといった、ロシアでさえほとんど知られていないマイナーなオベリウ派に、「チナリ」のメンバーも加え、それぞれの代表作をなるべく多く収録した。したがって、現時点では本書が世界で最も包括的な「オベリウ」アンソロジーといってよい」(本書「はじめに」より)

「オベリウ派――彼らはそう名乗っている。この言葉は、リアルな芸術の結社のことだと理解されている。この嘘くさい大仰な名前は、レニングラードのちっぽけな詩人グループが勝手に詐称しているものである。連中はほんの僅かだ。片手で指折り数えることができる。その創作ときたら……。」(オベリウに対する批判記事「反動的曲芸」より)

◎オベリウとは?
20世紀前半のロシアにおいて、「ロシア・アヴァンギャルド」と後に称される前衛芸術運動が興隆する。その寿命は短かったが、落日の間際、未来をも貫く鋭い光芒を放つ。それが「オベリウ」である。1927年に若者たちの手で結成されたこのグループは、「反革命的」と批判され数年で瓦解するものの、メンバー(オベリウ派)は創作をつづけ、ロシア文学史上きわめてユニークな作品を残した。また一部のオベリウ派は「チナリ」にも属していた。これは「オベリウ」と異なり閉じられたグループで、仲間たちは頻繁に集まりさまざまなテーマについて話し合った。そこでの会話がしばしば創作のヒントになっている。「オベリウ」も「チナリ」も長く忘却されていたが、20世紀後半から、ロシア文学史におけるミッシング・リンクとして世界的な注目を集めだす。両グループのメンバー全12人の創作を1冊に纏めた本書によって、その全貌がいま初めて一望のもとに置かれる。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2025年11月1日

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