主人公と五里霧中を進む新鮮体験
とてもいきのいい小説だった。つかまえたばかりの魚みたいで、読み終っても胸の内でつぴつぴ跳ねる。語り手の「俺」には妻と幼い息子がいて、物語の冒頭、三人は街で買物をしている。街はちょっと寂れた感じで、店は「バラック」なのだが、ごくありふれた家族の日常に見える。買物のあと、三人は地下鉄に乗って家に帰ろうとする。が、電車の故障によって、途中で降ろされてしまう。普通ならちょっとしたトラブルとして片づけられそうなことなのに、三人にとっては違った。不法移民で、言葉もわからず、土地勘もなく、なぜ地下鉄を降ろされたのかさえ理解できない彼らは途方に暮れる。ともかく家に帰るべく歩き始めるものの、何もわからないままの行軍は、誤解や不運や主人公の性格によって、どんどん混迷を深めていく。驚くのは、ここが一体どこなのか、読者に最後まで知らされないことだ。どこの国のどの都市で、人々が何語を話しているのか。「俺」は「くに」で何らかの違法行為をし、逃げるように「島」にやってきた、妻も息子もついてきた、としか語られない。だから家をめざしてさまよう彼らの不安と混乱と五里霧中感を、読者である私もそのまま同時体験してしまう。ここはどこなの? どういう作法がここでは適切なの? 見馴れない風景や、不穏なタイミングで運転手が交代する(から降りた方がいい気がする)バスや、雨や夜や空腹までライヴで共有してしまう。彼らは貧しく、家は狭く持ち物もすくないが、それでも、「家への帰路を失うということは、新しい靴下を、でかすぎたりゴムが切れていたりするパンツを、かかとがすり減ったブーツを、俺たち三人の写真とすぐそばにいてほしいと思っていた人たちの写真を、手紙を、好きな歌を、肉の煮込みの残りを、まだ硬い桃を、鎮痛剤を、(中略)櫛(くし)を、高価だった爪切りを、ファティマの聖女のフィギュアを、くにから持ってきたライターを、ベッドの脚の中に隠してあるカネを、(中略)最初の給料を手にしたら妻と息子を連れて行こうと決めているインド料理屋のチラシを、くにの友人や親戚の住所リストを」、他にもたくさんのあれやこれやや、「過去を、未来を、すべて失うということ」なのだ。
全編を通して一人称の、主人公の語りが冴えに冴えている。武骨で率直、ユーモラスで詩情豊か。「俺」は誠実で勇敢だけれど、誇り高く頑固で、考えすぎたり考える方向がずれていたりするために、事態を加速度的に悪くしてしまう。警察に助けを求めれば(あるいは単に捕まれば)強制送還されるという恐怖ももちろんつねに彼にのしかかっている。家族への愛情と責任感も。
地下鉄が止っただけでそんなことにまでなるなんて、という終盤の展開も見事。この小説には切実さと可笑しみ、日常性と非日常性、もろさとたくましさ、緊張感とおおらかさが絶妙にブレンドされている。そして、読み進むうちに、この場所の現実よりも、主人公の内側にだけ存在する現実――くにでの流儀や論理や道理――の方が、自分にとっても親しく確かなものであるように感じる。