書評
『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』(左右社)
常に動き、変化する言葉への考察
本書は、辞書作りの悪戦苦闘を開示してくれるエッセイで、著者はアメリカで最も歴史ある辞書出版社、メリアム・ウェブスターの社員編纂者である。この只者ではない辞書編纂者の、博識、自虐、ユーモア、言葉への深い愛と洞察に、笑わされ、泣かされ、はっとさせられて、巻擱(お)く能(あた)わず読み進んでしまう。一つの言葉の語釈にたどり着くために、辞書編纂者はラテン語から古代英語から、はてはティーン向けベストセラー「トワイライト」シリーズまで隈なく目を走らせる。そして、ハリー・ポッターから生まれた新語「muggle<マグル>」が最高裁判決の反対意見陳述で使われていることや、ワルが使うイメージのある「ain′t」をジェイン・オースティンが使っている事実を探り当てたりする。若者言葉と思われがちな「頭字語」の代表選手「OMG(Ohmygod!の略)」の初出は、なんと1917年、ウィンストン・チャーチル宛の手紙の中だという。
いつの時代の何が定着するのかも謎で、「OK」は「ollkorrect」の略で、「故意に間違えた綴りから略語を作るという、19世紀初頭にいっとき流行った遊びから、“allcorrect”<すべて正しい>の綴りを面白おかしく変えた」のだそうだ。
ただし、こうしたトリビアの罠は、真実よりもおもしろさに軍配が上がること。サンドイッチ伯爵がサンドイッチを作ったという説などはどうも眉唾らしい。
泣かせるのは「bitch」(アバズレ、メス犬などと訳される)という、女性への侮辱語とされてきた言葉をめぐって言葉の「再定義」を語るくだりなど。「再定義」とは、「蔑まれる側が集団としての自分たちに向かって投げつけられていた激しい侮辱語を自ら積極的に使うことによって、自己のアイデンティティを誇りに思う標として使いはじめる、という過程」を指す。「bitch」は近年、「タフで有能な仕事をする女性」など、ポジティブな意味でも使われる。著者は女性として生きてきた経験を持ち、「言葉には実体があるのだということを知っている」。「bitch」という言葉が女性に投げつけられるのを見て、「こぶし」を握らざるを得なかった体験が、その言葉の「再定義」を理解させる。同時に、白人である著者は「nigger」という黒人蔑視の呼称の前に、「この言葉が代弁する数世紀にもわたる攻撃」「(その)問題の一部に自分たち自身がなっていること」にも、気づかざるを得ない。「言葉は人を傷つける。なぜなら、言葉は互いを傷つけあう手段として唯一社会的に認められているものだからだ」。
言葉は人を傷つけるが、「再定義」によって、「人を損なう力を圧制者からもぎ取り、尊厳に関わる問題として思いつく限りでいちばんひどい悪態を使う」試みを生み出すものでもある。
「Marriage」の項に、同性婚に関する語釈を加えたために、500通もの抗議メールに返事を書かなければならなくなった顚末も興味深かった。常に動き、変化していく、この不思議なもの=言葉に対するユニークな考察は、わたしたちの社会、歴史、人間そのものについて、たっぷりと考えさせてくれる。
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