書評

『忘却についての一般論』(白水社)

  • 2021/02/03
忘却についての一般論 / ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ
忘却についての一般論
  • 著者:ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ
  • 翻訳:木下 眞穂
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(276ページ)
  • 発売日:2020-08-28
  • ISBN-10:4560090637
  • ISBN-13:978-4560090633
内容紹介:
二十七年間にわたる泥沼の内戦下を孤高に生きた女性ルドの人生。稀代のストーリーテラーとして知られるアンゴラの作家による傑作長篇
明日、六時に。いつもの場所で。くれぐれも気をつけて。愛してる。

鳩の脚にくくられた短いラブレターが青い空を飛ぶ。純白の鳩の名はアモール(愛)。その腹には二粒のダイヤモンド。しかしこの物語はラブストーリーではない。舞台となるのはアフリカ南部の国アンゴラ、宗主国ポルトガルからの独立とその後の二十七年にも及ぶ内戦の日々。描かれるのは、飢え、貧困、拷問にリンチ、盗みや殺人の数々。

だが三十以上の掌編と詩がつらなるこの物語は、やはり愛についてのものである。時代と運命に翻弄された人々が強かにその人生を生き抜き、偶然と必然に導かれて出会い別れていくさまが「全編にしみわたるユーモアと温かみ」(訳者あとがき)とともに語られる。物語に通底するのは過去(「忘れがたきもの」)への愛惜、そして現在に対する肯定と未来への希望である。

作者のジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザは一九六〇年、アンゴラ生まれ。初の邦訳である『忘却についての一般論』は二〇一二年に刊行され、二〇一六年に英国の国際ブッカー賞最終候補まで残ったのち、翌年に国際ダブリン文学賞を受賞した。ポルトガルとブラジル系の両親をもつアンゴラ人の彼の作品には、異文化・異民族の混在という混血文化を背景にした母国の歴史、社会、政治に対するジャーナリスティックな視線と、植民地支配からの解放闘争、それに続く内戦によって失われたものへのノスタルジックな眼差しが共存する。

題名はやや堅いが、本を開いてまず心を奪われるのは、「あまりにも過剰な光」になぞられた鮮やかなアンゴラの世界である。押しつぶされそうなくらい大きな青い空、その下の首都ルアンダの街、湾、島。紫のブーゲンビリアが咲きほこり、朝の日をふくんだ紅いザクロが実る。聞いたこともない言葉や見たこともない光景の数々。クリベカ、サンザ、ゴイアバーダに、ムレンバの大木を伝って十一階まで登ってくる野良猿や、ベランダでルンバに合わせて踊るカバ。想像がぐんぐん膨らんでいく。

主人公の女性はルドヴィカ・フェルナンデス・マノ、通称ルド。生まれも育ちもポルトガルで、一緒に暮らす姉の結婚とともに、その嫁ぎ先のルアンダへ移り住んだ。折しもアンゴラでは独立解放闘争が激化し、豪奢な自宅マンションの下では日夜、怒号や銃声が鳴り響く。小さな頃から空と広い場所を恐れるルドは家にこもりきりで、接するのは姉と白系アンゴラ人の義兄、ファンタズマ(幽霊)という名の白い犬だけ。しかし姉夫婦は動乱の最中に消息を絶ってしまい、恐怖にかられたルドは身を守るために部屋の入口をセメントで固め、マンションの最上階に籠城する。空に浮かんだ孤島。ここで彼女はその後の二十七年を一人で生き抜くのだ。

二〇二〇年、コロナ禍で今までの日常が消え失せた。外界から切り離され、ドアの向こうの脅威に怯える。多くの人々が行き場を失い、華やかな世界で笑顔を見せていた人が自らの命を絶った。ルドの孤独、絶望、不安、恐れはもはや他人事ではない。ファンタズマを亡くした後、彼女も十一階のテラスから地上を見つめた。向こうに広がる青い空。死はすぐそこだった。

ルドに寄り添ったのは本である。書架には義兄が残した数多の本があった。ポルトガル語、フランス語、スペイン語、英語、ドイツ語で書かれた世界文学の古典たち。飢えで視力が衰えると、ルドは陽の光の下で拡大鏡を使い、文字を追った。そして彼女は書いた。最初は日記を。紙とペンを使い尽くすと、部屋の壁一面に炭で想いを、詩を、書き綴った。家じゅうの壁がルドの言葉で埋め尽くされ、最後には家が一冊の本になった。

あの鳩も飛んできた。ダイヤモンドを鳩に飲ませたのは彼女。飢えたルドが想いを馳せた見知らぬ恋人たち。彼女の手から飛び立った鳩が運ぶラブレター。受け取った男が立ち上がり、世界がまわっていく。ルドの物語を軸として様々な人々の人生が語られ、彼らとルドの物語が重なるごとに、万華鏡のように人や背景がくるくると姿を変える。青い空の下ではルドも一人ではない。わたしたちは皆、「ひとつの蜂の巣であり、蟻の巣」の一部なのだ。

待つ人が一人もおらず、唯一の愛する存在を失くし、視力がほぼ失われてもなお、ルドは生きた。忘れがたきを忘れぬために、想いを言葉にして書き続けた。彼女の残した物語はわたしたちに静かに告げる。生き延びるのだ、と。その先には、光と赦しがきっとある。

[書き手]岡嵜郁奈(翻訳者/英語講師)
忘却についての一般論 / ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ
忘却についての一般論
  • 著者:ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ
  • 翻訳:木下 眞穂
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(276ページ)
  • 発売日:2020-08-28
  • ISBN-10:4560090637
  • ISBN-13:978-4560090633
内容紹介:
二十七年間にわたる泥沼の内戦下を孤高に生きた女性ルドの人生。稀代のストーリーテラーとして知られるアンゴラの作家による傑作長篇

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初出メディア

図書新聞

図書新聞 2021年1月23日(3480号)

週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。

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