透明性と忠実性の両立の結晶
書店の外国文学の区分には、「その他の外国文学」に分類される“マイナー”な言語がある。本書はそんな翻訳者たちへの稀有なインタビュー集だ。登場する翻訳者は、ヘブライ語の鴨志田聡子、チベット語の星泉、ベンガル語の丹羽京子、マヤ語の吉田栄人(しげと)、ノルウェー語の青木順子、バスク語の金子奈美、タイ語の福冨渉(しょう)、ポルトガル語の木下眞穂、チェコ語の阿部賢一、そして序文で鋭い問題を提起している韓国語の斎藤真理子という錚々たる面々。なにしろ、これらの言語の多くには、まず辞書がない、教材がない、先生がいない……。しかし吉田は動詞活用辞書と文法解説書を自分でつくってしまう。さらに、皆さんフットワークが軽い。鴨志田は日本に講座がなければ、リトアニアやニューヨークまで赴く。星は映画監督でもある著者の上映会やトークイベントも自分で開催する。
本書を通してキーアイデアとなるのは、一つに、訳文のリーダビリティだ。英米では「透明性」と表現されるものだが、その対抗概念のようにみなされるのが「忠実性」であり、この二つを両立させるのは基本的に無理だという考えがある。「不実な美女か、忠実な醜女か」理論である。特に近年はマイナー言語からメジャー言語に訳す際には、いくら読みにくくなっても、起点言語の文法や文化の特徴を忠実に写し、大きな言語に“馴致”されないよう戦略的異化翻訳を行う訳者もいる。
本書の九人は各自のやり方で透明性と忠実性とのバランス(ここに日本の翻訳者の才気が結晶する)をとりながら、リーダビリティを追究する。ノルウェー語教師でもある青木は「正しさとわかりやすさ」の狭間で悩み、読者の視点に立つことで解決した。また、関係詞を巧みに駆使し「立体的な構造の文」を立ちあげるベンガル語を、「平板に進む言語」である日本語に訳す丹羽は、文の頭が重くなりすぎないように腐心する。チェコ語も関係節の訳し方に工夫が必要だ。阿部は「旧情報、新情報」の概念を頭に置き、原文の語順を重要視する。
本書のもう一つのキーとなるのが「オリエンタリズム」である。序文で斎藤真理子が「世界文学論は依然としてオリエンタリズムの延長にある」と看破しているが、ポスト(ポスト)コロニアル文学に対する吉田の提言は重い。マヤ文学とはなにか定義をする時点で「オリエンタリズム的な感じがする」と。マヤ文学はマヤの文学について書くという制約を自らに課している限り行き詰まってしまう。しかしその枷から解放されるには、受容する側も読み方を変えていく必要がある。
この問題はアジアの国同士でも起こり得る。福冨の訳書には「訳者註」がごく少ないが、これは、東南アジアの文学には註を付けないと理解されないと考えること自体に「オリエンタリスティックなまなざしが入っているんじゃないか」という問題意識からだ。
ほんの二十年前には日本文学にもオリエンタリズムが求められていた。そうした偏見が少しずつ取り去られるには、作家の生みだす作品の刷新性にくわえ、それを紹介する翻訳者という「読者」であり「仲介者」の存在も大きかったはずだ。文学作品は作者と読者の主体的な協働によって成立する。それがじつに明確になる一冊である。