書評
『アコーディオン弾きの息子』(新潮社)
人々を裂くいびつな二重性
まず、バスク語の現代小説が、原語からの直接の翻訳で読めることに感謝したい。バスク語は歴史の古い孤立言語であり、非ネイティヴには極めて難解な文法をもつ。スペインのフランコ政権時代には使用を禁止されるまでの抑圧を受けたが、その後、公用語として認定され、原語からじかに訳せる翻訳者も増えてきたという。とはいえ、スペイン語かフランス語につぐ「第二の言語」として扱われがちな現状がある。本作は作中で書かれる「アコーディオン弾きの息子」という回想録が元になっており、作者が二人いる。第一の作者は、一九五〇年代にバスク地方のゲルニカに近い「オババ」村に生まれたアコーディオン弾きの息子「ダビ・イマス」、第二の作者は、長じて作家になった彼の幼なじみ「ヨシェバ(本名ホセ)」。
ダビは成人後、カリフォルニアに渡り、アメリカ人女性と結婚し家庭を築くが、あるとき故郷に対する積年の思いを搔きたてられ、「僕も自分のカーヴィング(彫刻)をつくることにした」と言って、オババにおける自叙伝と、スペイン内戦から独裁政権末期まで(一九三六年~一九七〇年代前半)のバスク地方史にまつわる回想録を書きだした。
だが、この私家版は妻子には読めないバスク語で書かれており、ヨシェバはその理由を察する。ダビは「自分の第一の人生と第二の人生が混ざり合うことを拒絶していた」のだと。ヨシェバはこの未整理な回想録を加筆・編集し、共著として出版する決心をする。第二の「新しい家を建てる」つもりで。それが本書である。
ダビの妻はいつかそれが英語に翻訳されれば、読むことができると言う。言語伝達の、なんと長くもどかしい道のりだろう。そう、本書自体がその内部から「翻訳されるのを待っている」と呼びかけているのだ。ここには、バスク語で書くことの強靱な意思と、それを読み手に届ける困難が端的に示されているのではないか。
本稿でも「第一の」「第二の」という語を何度か使ってきたが、本作では、(ときに優劣を伴う)いびつなデュアリズムが大きな構図としてあり、人々を引き裂く。ダビはあるとき、屋根裏で一冊のノートを目にし、父に深刻な疑惑をもつ。その頁(ページ)には処刑された村人たちの一覧が……。ダビは暗い歴史を意識せずにいたそれまでの「第一の目」の他に「第二の目」を持つようになる。「≪第二の目≫で見、≪第二の頭≫で考えて記憶し、≪第二の心≫で感じ」る比重が増えていく。
その後、ダビはある記念碑の除幕式でアコーディオン演奏を拒み、内戦時代、ファシストの反乱軍から逃れる人々が使った隠し部屋に身を隠す。しかしのちには、こうした隠し部屋が、過激化したETA(バスクの独立自治を目指す民族組織)が敵方を監禁する場所にもなるのだ。
本書には作者が二人いると書いたが、本当はアチャガを入れて三人だ。自伝的色合いも濃い。つまり、ダビ・イマスとヨシェバ(ホセ)はサロゲート・オーサー(作者の代弁者)だろうか。作者の本名がホセ・イラス・ガルメンディアという点からも、そう言えそうだ。ダビとヨシェバは、ある意味、二人で一人なのだ。それは、本作序盤にも暗示されている。「(二人の合作は)時がたちまちすべてを一つにすることだろう」と。
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