書評

『若い小説家に宛てた手紙』(新潮社)

  • 2021/10/03
若い小説家に宛てた手紙 / マリオ・バルガス=リョサ
若い小説家に宛てた手紙
  • 著者:マリオ・バルガス=リョサ
  • 翻訳:木村 榮一
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(171ページ)
  • 発売日:2000-07-01
  • ISBN-10:4105145061
  • ISBN-13:978-4105145064
内容紹介:
創作とは多大な犠牲を強いるものであり、将来の保証は何もない。それでもなお小説家を志そうとする若い人へ、心から小説を愛している著者が、小説への絶大な信頼と深い思いを込めて宛てた、感動のメッセージ。

親切なリョサ版文章読本

私は常々、リョサは生まれる時代を間違えたと思っている。彼は十八世紀か十九世紀ヨーロッパのブルジョワ家庭に生まれるべきだったのだ。そして、そこでロマン主義の作家として、あるいはアンチ・ロマン主義を唱えるリアリズム作家(これも広い意味でロマン主義だろう)として、輝かしい作品群を打ち立てるべきだった。

このように思うのは、リョサがフローベールを崇拝しているからではない。作品のテーマの重々しさ無視できなさにもかかわらず、そのナイーヴでお人好しで一本気で、使命感と正義感にあふれ、極めて真面目なメンタリティが、二十世紀にあっては彼をどこか滑稽な存在に仕立ててしまうからだ。リョサはいつでも前向きで、近代を信じ、啓蒙的である。だからこそ、十年前、ペルーの大統領選にも立候補したのだろう。

もちろん、二十世紀のペルーに生まれた者が、十九世紀ヨーロッパ的な小説の黄金期には立ち会えるはずもないという苦い思いがあったから、リョサはまぎれもなく二十世紀的なラテンアメリカ文学の騎手になれたのだ。彼は十九世紀ヨーロッパの小説を読み漁りながら、それらの小説の中にある近代化さえある意味ではまだ手にしていないペルーの現実に、始終苛立っていたのではないか。彼はその越えられないギャップを、勤勉な努力で乗り越えようとしてきたと思う。

そうして手に入れた、近代小説についての膨大な知恵を、これから小説に向き合おうとする若者にやさしく解説しようというのが、最新エッセイ集『若い小説家に宛てた手紙』である(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2000年)。タイトルでは「若い小説家」宛てになっているが、実際は小説家志望者に向けたリョサ版「文章読本」と言える。リョサは、文学理論や批評を知らない者に少しでも理解してもらうため、読み手に語り聞かせるような書簡体の形式をとるなどして、読みやすさに工夫を凝らしている。これだけ平易で明解な入門書は、滅多にないだろう。

最後の「追伸風に」と題されたあとがきを除く全十一通の手紙は、すべて「親愛なる友へ」という書き出しから始まる。この「友」とは読者だが、おそらくリョサがイメージしていたのは小説家を夢見ていた若き日の自分ではないか。第一章の初めでそのころの希望と不安が語られ、「文学があまり重視されておらず、社会の片隅で肩身の狭い思いをしている国々では、大勢の若者がそんな風に弱気になって文学を断念します」と、この本を書いた動機を明かしている。

第一章「サナダムシの寓話」と第二章「カトブレパス」は、小説家を目指すに当たっての心構えである。リョサは、小説の秘められた存在理由は、当人が意識しているか否かにかかわらず、「現実に対する不信」であるという。「あるがままの人生と現実の世界とを間接的に批判、拒絶していて、できれば自分の想像力と願望が生み出した世界をそれらと取り替えたいと願っている」がゆえに、物語を作り始めてしまうような人が、小説家になる資格を持っている、と説く。

いまの日本では小説を書きたがる人が増えているが、彼らにもそのような「現実に対する不信」があるのかどうか。一時期、創作教室の通信添削科で教えたことのある私の印象からすると、「現実に対する不信」を抱えている人は多いが、それらの人と小説家になりたがっている人とは別なようだ。日本では、「現実に対する不信」が小説を書くことに向かわず、自己顕示の言葉を書く方へ向かっている気がする。言葉なんかどうせ伝わらないから、一方的に宣言だけしてやる、というわけだ。そして他方で、何かしらの自己実現を達成するために小説家になりたいと望む人たちがいる。

リョサは後者の人たちに警告を発する。小説を書くとは、腹にサナダムシを寄生させているようなもので、摂取する栄養はすべてサナダムシに食われてしまうし、自分の人生を丸ごとサナダムシに捧げなくてはならなくなる、小説の奴隷になるのだ、だから「気の遠くなるほど長い時間」がかかるのだ、と。書くテーマも、作家には選ぶ自由などなく、その人の置かれている現実や経験が要請してくるのであり、作家は結局、自分の人生を貪る、足から自分の体を食い尽くしていく幻獣カトブレパスのごとき存在となる、と言う。

ノーベル文学賞の候補にもなる作家が「サナダムシ」なんてつまらない比喩を使っていいの?という疑問はわくし、彼の説自体、すでに過去のものとなろうとしている近代文学的な発想だと思ったりはするが、恣意的にテーマを選び恣意的に文学者になっているアイロニーの権化のような物書きたちを葬り去る一助にはなるだろう。結局はそのような物書きたちが、近代文学がまだ成り立っているような幻覚を生き永らえさせるのだし、その幻覚の湿った陰が、「言葉なんかどうせ伝わらない」という絶望を育むのである。

第四章「文体」では、突然リョサが感情を露わに怒りだすのが可笑しい。いろいろな文体例を引き合いに出すのだが、ボルヘスに話が及ぶと、「その影響は有害なものでした」とムキになり始める。

「彼の文体にはそう書かざるをえないという必然性が備わっており、だからこそ誰も模倣することができないのです。ボルヘスの賛美者や文学的な追随者が、彼から形容詞の使い方や非礼ともいえるウィット、からかい、尊大な態度を借用しても、ちょうど出来の悪いカツラをつけたものの、しっくり頭に合わず浮き上がったようになり、地毛ではないことがわかって何とも間が抜けて見えるのと同じです。ホルヘ・ルイス・ボルヘスが途方もなく創造的な作家だけに、その模倣者である〈小ボルヘスたち〉ほどいらだたしく不愉快なものはありません」

リョサはよほど腹に据えかねる目に何度も遭ったのだろうが、これを日本に置き換えれば〈小ボルヘスたち〉の欄に誰が入るのかと考えるのも楽しい。

あとは「語り手」や「時間」や「現実レヴェル」などの具体的な技術解説が続く。最後の章の末尾では、リョサの知る技法はすべて語り尽くしたと明言される。読者は満足して最後の「追伸風に」を読むことになるだろうが、そこにどんでん返しが待っている。小説をバラバラにして技術など解説できるわけがなく、つまり他人に創作法など教えることは無理で、できるのはせいぜい文章の書き方や本の読み方を教えることぐらいだ、と突き放されるのである。だから、この本に書かれていることは忘れて、書き始めるべし、と。同感。ただし、まったく読まないのと、読んでから忘れるのとでは意味が違うことを、心得ておく必要はあるが。
若い小説家に宛てた手紙 / マリオ・バルガス=リョサ
若い小説家に宛てた手紙
  • 著者:マリオ・バルガス=リョサ
  • 翻訳:木村 榮一
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(171ページ)
  • 発売日:2000-07-01
  • ISBN-10:4105145061
  • ISBN-13:978-4105145064
内容紹介:
創作とは多大な犠牲を強いるものであり、将来の保証は何もない。それでもなお小説家を志そうとする若い人へ、心から小説を愛している著者が、小説への絶大な信頼と深い思いを込めて宛てた、感動のメッセージ。

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新潮

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