作家論/作家紹介

バルガス=リョサ 『緑の家』(岩波書店)、『ラ・カテドラルでの対話』(岩波書店)、『都会と犬ども』(新潮社)、『フリアとシナリオライター』(国書刊行会)、他

  • 2021/11/08

バルガス=リョサ 混沌より秩序を?

『緑の家』の制作をめぐるエッセー、『ある小説の秘められた歴史』の冒頭で、バルガス=リョサは、小説を書くことは順序が逆のストリップティーズであり、すべての小説家は控え目な露出狂なのだ、と述べている。彼によれば、小説家はまず、「自分につきまとい自分を苛むデーモン、自分自身のもっとも醜悪な部分すなわちノスタルジー、罪、恨み」を見せること、言い換えれば生身の姿をさらすことから始め、小説を完成させたときには自分でも最初の姿が分らないほど衣服をまとっているというわけである。一九七九年、初来日の折に、彼は山口昌男氏と対談を行なっているが、山口氏が小説家とストリッパーの対比に異化効果の狙いを見ているのに対し、バルガス=リョサ自身は、それがもっと直截的な比喩であると同時に彼の一種のオブセッションであることを明らかにしている。

緑の家 / M.バルガス=リョサ
緑の家
  • 著者:M.バルガス=リョサ
  • 翻訳:木村 榮一
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(368ページ)
  • 発売日:2010-08-20
  • ISBN-10:4003279611
  • ISBN-13:978-4003279618
内容紹介:
町外れの砂原に建つ"緑の家"、中世を思わせる生活が営まれている密林の中の修道院、石器時代そのままの世界が残るインディオの集落…。豊饒な想像力と現実描写で、小説の面白さ、醍醐味を十二分に味わわせてくれる、現代ラテンアメリカ文学の傑作。

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フロベールを論じた評論の中で、彼は、「小説家は、ただ自分の個人的歴史(イストワール)を出発点として、物語(イストワール)を考え出すのである」と述べているが、箴言とみなせるほど特別な考え方ではなく、たとえばガルシア=マルケスも、「個人的な経験に完全に結びついていない物語を書くなんてことはできない」と明言している。だが、バルガス=リョサは、この出発点としての個人的経験に執拗にこだわっているように見える。というのも同じ本の別の個所で、「小説家は、無からではなく、自分の経験とのかかわりにおいて創造するということ、虚構のレアリテの出発点となるのは、作家が実際に生きてきた現実界のレアリテにほかならないということである」と、ほぼ同じことを繰り返しているからだ。なぜだろうか。六十年代半ばに行なわれたインタヴューで、彼はすでに、「人は個人的経験に応じてしか書くことができないと思う」と言っているが、ここで注意しなければならないのは、彼の問題にする「個人的経験」というのが何よりもまず、彼にトラウマをもたらした、少年時代の経験を意味しているということだ。

伝記的事実に目を向ければ、少年時代の彼は、インターナショナル・ニュース・サービスの記者だった父親と接した経験が皆無に等しく、父親は死んだものと思っていたほどだった。この父親に後に再会するのだが、そのときにはもはや二人の間にコミュニケーションはまったく成り立たなかったという。しかも父親は、文学に興味を示し始めていた軟弱な息子の精神を鍛え直すために、彼を軍人養成学校へ入学させた。このうまくいかない父と息子の関係は、やがて『ラ・カテドラルでの対話』の中に持ち込まれ、政商ドン・フェルミンとその息子でブルジョワ階級をドロップ・アウトした主人公サンティアゴの関係として描かれることになる。

『緑の家』や『世界終末戦争』をバルガス=リョサの代表作とみなすのが一般的な評価であるのに対し、大江健三郎が『ラ・カテドラルでの対話』を最高作と考えるのは、そこに描かれている父と息子の暗い関係というテーマに惹かれてであるという。親子関係をモチーフに数多くの小説を書いてきた作家であるだけに、このテーマそして作品の背後に隠れている「個人的歴史の」重さを十二分に捉えてのことにちがいない。

ラ・カテドラルでの対話 / バルガス=リョサ
ラ・カテドラルでの対話
  • 著者:バルガス=リョサ
  • 翻訳:旦 敬介
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(640ページ)
  • 発売日:2018-06-16
  • ISBN-10:4003279646
  • ISBN-13:978-4003279649

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父親不在、コミュニケーションを欠いた親子関係に加えてトラウマの原因となったのが、学校である。レオンシオ・プラード学院の悪夢的な弱肉強食の世界は『都会と犬ども』に刻明に描写されているが、その軍人養成学校以前にも、彼はボリビアで年長の生徒たちに混じって学校生活を送ったことがあり、この経験も『都会と犬ども」や『ボスたち』『子犬たち』といった学園を舞台とする一連の作品に溶かし込まれているとみていいだろう。これらの経験を通じ、少年時代のバルガス=リョサは、自分の属する世界すなわちリマのブルジョワ階級を拒否し、それに代わるべき階級の不在によって、世界から孤立してしまう。その寄る辺のなさが彼をさらに文学に接近させたであろうことは想像に難くない。彼は言っている。

私にとって文学は逃げ道であり、自分が生きていることを正当化し、自分を悲しませ不快な気持ちにさせるすべてのことの代償となるものでした。(……)書くということは自らを守ることであり、救済することであり、そこから自分が追い出されたあるいは追い出されたと信じている社会、もしくは排除されていると感じている慣れ親しんだ世界に復帰する手段なのです。 (『我らの作家達』)

もちろんこれは文学について一般的に言えることである。だが彼が敢えてそれを言うということ自体、個人的経験、トラウマがいかに大きなものであったかを示していると見ていいのではないか。

都会と犬ども / マリオ・バルガス=リョサ
都会と犬ども
  • 著者:マリオ・バルガス=リョサ
  • 翻訳:杉山 晃
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:ハードカバー(413ページ)
  • 発売日:2010-12-01
  • ISBN-10:4105145088
  • ISBN-13:978-4105145088
内容紹介:
厳格な規律の裏では腕力と狡猾がものを言う、弱肉強食の寄宿生活。首都リマの士官学校を舞台に、ペルー各地から入学してきた白人、黒人、混血児、都会っ子、山育ち、人種も階層もさまざまな一群の少年たち=犬っころどもの抵抗と挫折を重層的に描き、残酷で偽善的な現代社会の堕落と腐敗を圧倒的な筆力で告発する。'63年発表。

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小犬たち/ボスたち / マリオ・バルガス・リョサ
小犬たち/ボスたち
  • 著者:マリオ・バルガス・リョサ
  • 翻訳:鈴木 恵子,野谷 文昭
  • 出版社:国書刊行会
  • 装丁:単行本(201ページ)
  • 発売日:1978-03-01
  • ISBN-10:4336026610
  • ISBN-13:978-4336026613

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興味深いのは、トラウマに基づくあるテーマをひとつの小説の中で書き尽すと、あたかも自己治癒をしたかのようにもはやそれを離れ、新たなテーマに挑むことだ。彼が小説を創作するとき、まず膨大な草稿を書くことはよく知られている。彼はそれを「マグマ」と呼んでいるが、それこそまさしく「自分につきまとい自分を苛むデーモン、自分自身のもっとも醜悪な部分」と彼が言っているものに他ならない。そしてバルガス=リョサを彼たらしめているものがあるとすれば、それはこの圧倒的な量の「マグマ」だろう。極端に言えぱ、彼の小説はこの「マグマ」の量と質によって決まるのである。

彼の場合個人的な経験の一切が熱く溶けた「マグマ」をいかにさばくかによって作品のジャンルが決まってくる。したがって彼にとっては戯曲や評論も、形を取る前は同じものだったといえるだろう。戯曲『タクナの娘』は未婚のまま老いた女性を主人公にしているが、それは彼の幼児期に周囲にいた身内をモデルにしている。あるいは評論『果てしなき饗宴――フロベールと「ボヴァリー夫人」』の第一部は、彼が留学生としてパリにいたときの体験を綴った一種の私小説で、これを小説『フリアとシナリオライター』に組み込んでもさして異和感はないだろう。つまりこの評論は、個人的な経験から出発するという、彼の小説のセオリーに従って書かれているのだ。あるいは先に引用した『ある小説の秘められた歴史』を挙げてもいい。彼はこの評論でペルー北部、ピウラでの個人的歴史がやがて小説へと変貌していく過程を明らかにしているが、この著書の原稿はもともとワシントン州立大学での講演で読まれたのであり、その意味で彼はまさしく「逆ストリップティーズ」を行なったのである。彼は初めて日本を訪れた際にも講演を行なっていて、そのときは、邦訳が出たばかりだった『ラ・カテドラルでの対話』の「秘められた歴史」を語っている。

フリアとシナリオライター / マリオ・バルガス=リョサ
フリアとシナリオライター
  • 著者:マリオ・バルガス=リョサ
  • 翻訳:野谷 文昭
  • 出版社:国書刊行会
  • 装丁:単行本(475ページ)
  • 発売日:2004-05-01
  • ISBN-10:4336035989
  • ISBN-13:978-4336035981
内容紹介:
結婚式当日に突然昏倒した若く美しき花嫁。泥酔して花婿を殺そうとする花嫁の兄。一体ふたりの間には何があったのか!?巡回中のリトゥーマ軍曹が見つけた正体不明の黒人。彼の殺害を命じられた… もっと読む
結婚式当日に突然昏倒した若く美しき花嫁。泥酔して花婿を殺そうとする花嫁の兄。一体ふたりの間には何があったのか!?巡回中のリトゥーマ軍曹が見つけた正体不明の黒人。彼の殺害を命じられた軍曹は果して任務を遂行することができるのか!?ネズミ駆除に執念を燃やす男と彼を憎む妻子たち。愛する家族に襲撃された男は果して生き延びることができるのか!?ボリビアから来た"天才"シナリオライター、ペドロ・カマーチョのラジオ劇場は、破天荒なストーリーと迫真の演出でまたたく間に聴取者の心をつかまえた。小説家志望の僕はペドロの才気を横目に、短篇の試作に励んでいる。そんな退屈で優雅な日常に義理の叔母フリアが現れ、僕はやがて彼女に恋心を抱くようになる。一方精神に変調を来したペドロのラジオ劇場は、ドラマの登場人物が錯綜しはじめて…。『緑の家』や『世界終末戦争』など、重厚な全体小説の書き手として定評のあるバルガス・リョサが、コラージュやパロディといった手法を駆使してコミカルに描いた半自伝的スラプスティック小説。

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しかし彼が、書くという行為をストリップティーズに喩え、見せるあるいはさらすということにこだわったとしても、それは必ずしも読者や聴衆との間にエロティックな共犯関係を成立させることを目的としてはいない。目的はおそらく、自分の中にあるディモーニッシュなものが何であるのか、そして自分が何を書いたのかを知ることであり、書くことも語ることもそして読むことも、彼にとってはカタルシスを得るための儀式なのだ。

バルガス=リョサにとっての一九七〇年代は、「批評の季節」と呼ばれているが、実際この時期にバルガス=リョサは批評意識と方法意識を強め、『ある小説の秘められた歴史』(講演そのものが行なわれたのは一九六八年)以外にも、『ガルシア=マルケス――ある神殺しの歴史』『果てしなき饗宴――フロベールと「ボヴァリー夫人」』の二つの長篇を含む数多くの評論を出している。この現象は、バルガス=リョサの欧米におけるアカデミックな活動と結びついているが、イギリス、プエルトリコ、アメリカでのセミナーの成果を一冊の本の形にしたのが『ある神殺しの歴史』であり、この本を書いた経験を踏まえて書かれたのが『果てしなき饗宴』である。それらを比較すると、何を書く(いた)かということからいかにして書く(いた)かということへ関心が移ってきているのが分かるだろう。

果てしなき饗宴―フロベールと『ボヴァリー夫人』 / マリオ バルガス・リョサ
果てしなき饗宴―フロベールと『ボヴァリー夫人』
  • 著者:マリオ バルガス・リョサ
  • 翻訳:工藤 庸子
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(303ページ)
  • 発売日:1988-03-01
  • ISBN-10:4480013199
  • ISBN-13:978-4480013194
内容紹介:
1959年の夏、パリに到着したばかりのペルーの一留学生が買い求めた一冊の小説。それこそは、作家としての彼の人生を決定づけた「愛の物語」だった。現代ラテンアメリカ文学の最前線に立つ若き巨匠、マリオ・バルガス=リョサが、鍾愛の書『ボヴァリー夫人』をめぐってダイナミックに展開する、とびきり面白い文学論。

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一九七〇年頃に行なわれたインタヴューで彼はまだ進行中だった『ある神殺しの歴史』について、ガルシア=マルケスという具体的な作家のケースから出発して、作家の資質と小説の技法の両方を同時に分析しようとする評論であると言っている。もっともこの評論を書く前兆はすでにあった。ひとつは「アラカタからマコンドへ」というエッセーで、彼は『百年の孤独』を中心に作者と作品に関していわばラフ・スケッチを行なっている。さらに遡れば、『百年の孤独』が出た年に実現したガルシア=マルケスとの対談というより正確にはインタヴューで、彼はこの「優れた小説」の出発点となる作者の個人的歴史にこだわる質問を盛んに浴びせているのだ。『神殺しの歴史』にこの時のインタヴューが引用されていることを見ても、彼が、コロンビアの作家がいかにして「現実的現実」を変容させたか、その秘密を探ろうとしていたことが分かるだろう。

ところで、『百年の孤独』を書いていなかったら、バルガス=リョサはガルシア=マルケスに興味を示すことはなかっただろう。未完成小説『落葉』やその後のリニアルな時間に沿った小説は、もはや彼の関心の対象とはならなかったはずだからだ。一九六六年、『緑の家』が読書界を驚かせた直後に行なわれたと思われるインタヴューの最後に、彼は自分の書きたい作品が、「不可能な小説、全体小説」であり、その具体的イメージを、幻想小説であると同時に心理小説であり、リアリズム小説であると同時に神話的小説であると表現するとともに、「偉大な小説とは、不可能な小説にあるところまで近づいたもののことだ」と語っている。そこには『緑の家』がそうした作品のひとつであるという彼の自信と同時に「不可能な小説」に挑もうとする完璧主義者の野心も窺える。その彼にとり、次の年に『百年の孤独』が出現したことは、衝撃的な事件だったにちがいない。彼が早速作者にインタヴューを行なったことはすでに述べたが、評論「アラカタからマコンドへ」の中では、この小説の価値の第一番目としてそれが全体小説であることを挙げているのである。しかもそれが「一般に矛盾すると信じられている性格」を複数備えていることを二番目の価値としている。さらに三番目の価値として作品の親しみやすさを挙げるのだが、いずれにせよ『百年の孤独』の衝撃が彼のマグマを猛烈に刺激したことはまちがいない。少なくとも量的には、ぼくの手に入ったいかなるガルシア=マルケス研究書にも勝っている。
しかし不思議なのは、「不可能な小説」の性格のひとつとして幻想性を挙げておきながら、彼自身は幻想小説を書かないことだ。ガルシア=マルケスへのインタヴューで、彼はその作品を幻想文学あるいは反リアリズム文学とみなしていると述べ、また八十年代に入ってから彼自身に対して行なわれたインタヴューの中で、ラテンアメリカ文学には幻想文学の分野があり、ボルヘス、コルタサル、ガルシア=マルケスがそこに属していると言って、自分の文学はそれとは区別している。ただし、ガルシア=マルケスの方は自身をリアリズム作家とみなし、「現実」の解釈についてはバルガス=リョサとは食い違いを見せている。この違いを客観的現実と主観的現実の差から生れると見ることも不可能ではないが、それを説明することは意外にむずかしい。というのも、「現実」というタームを定義しようとすると、トートロジーに陥ってしまう危険があるからであり、『ある神殺しの歴史』でマニアックなまでに分析を試みながら、結局バルガス=リョサもガルシア=マルケス文学の「幻想性」を解明しきってはいない。ところが、『果てしなき饗宴』では、バルガス=リョサの分析は冴えを見せている。それはおそらく、彼の方法が近代小説を学ぶところから生れたものであり、彼のリアリズムの概念も、ヨーロッパ文学の伝統的リアリズムのそれを継承するものであるからなのだろう。つまりガルシア=マルケスの作品は、そこからはみ出てしまうのだ。この問題を解決するには、文化人類学者が指摘しているカリブ海文学の口承的性格といったことを考慮しなければならないようだ。

フロベール論の中でバルガス=リョサは、主観的な生の描写よりは客観的な生の描写の方が、幻想的なものよりは現実的な創作のほうが好きだと述べている。それは彼がエンマ(したがってフロベール)同様、「物質主義者」であるという事実によって説明が可能だろう。彼は「精神よりも肉体の快楽を好み、感覚と本能を尊重し、他のいかなるものよりも地上の生活を大切にする」という。SFよりはポルノグラフィーを、怪奇小説よりは甘ったるい大衆文学を好むというのも同じ理由による。抽象と具象の二者択一を迫られれば、ためらうことなく具象を選ぶのである。ここには彼一流のダイコトミーが現われているが、このダイコトミーそのものが西欧近代の発想といえるかもしれない。

バルガス=リョサとガルシア=マルケスは騎士道小説を好む点で一致している。好む理由のひとつは、その語りの奔放さに惹かれるからである。だが、二人の読み方は実は違っているのではないだろうか。ガルシア=マルケスは、今日のラテンアメリカの途方もない現実を騎士道小説のそれと重ね合せて見ている。彼は小説が示すものを解釈するよりも、提示されるままに受け取るのだ。一方、バルガス=リョサは、現実を複数のものと考える中世の人間の現実観の中に、客観的現実と彼らが信じ、夢見、創作した主観的現実の混交を見出し、あくまで両者を区別しようとするのだ。この態度を徹底させるところがいかにもバルガス=リョサらしい。山口昌男氏との対談で、アルゲーダスの描くインディオの世界とアストゥリアスの描くそれとの違いを、彼は、「アストゥリアスの作品に登場する現代のインディオが読書や文化的教養を通じて思い描かれた架空のインディオ」であるのに対し、アルゲーダスのインディオは「実際の生活体験を通して描き出されたインディオ」であると述べている。つまりアストゥリアスはヨーロッパ人、白人の側にいると言っているのだが、このことは彼の初期の短篇「弟」が示すように、バルガス=リョサ自身にも当てはまるだろう。だが彼のいさぎよさはそこで悪びれないことだ。インディオの世界を自分とは異質なものとしてはっきり認め、偽善的なポーズを取ろうとはしない。前に述べたように、自分を幻想文学の作家たちとはきっぱり区別する態度にも同じことがいえる。彼の『話す人』(ALL REVIEWS事務局注:邦題『密林の語り部』)はその意味で興味深い作品である。そこではインディオの世界に同化した白人のことが語られる。しかしそれを語る作者の分身である「わたし」は、常に傍観者であり続ける。彼は決してあちら側へは行かないのだ。あるいは『フリアとシナリオライター』を考えてもいい。ユーモアと悲哀を感じさせるこの作品では、ラジオ・ドラマの人気作家が何本ものシナリオを書き続けているうちに発狂し、ドラマが支離滅裂になってしまうのだが、それを客観的に語り続けるのは主人公の分身マリオである。もちろん彼は発狂しない。彼は『夜のみだらな鳥』のウンベルトになることもなければ、『英雄たちと墓』のフェルナンドになることもない。『世界終末戦争』の説教師もアナーキストも彼のキャラクターではない。彼の役目は常に、理性を失わず、混沌に秩序を与えることなのだ。

密林の語り部 / バルガス=リョサ
密林の語り部
  • 著者:バルガス=リョサ
  • 翻訳:西村 英一郎
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(368ページ)
  • 発売日:2011-10-15
  • ISBN-10:4003279638
  • ISBN-13:978-4003279632
内容紹介:
都会を捨て、アマゾンの密林の中で未開部族の"語り部"として転生する一人のユダヤ人青年の魂の移住-。インディオの生活や信条、文明が侵すことのできない未開の人々の心の内奥を描きながら、「物語る」という行為の最も始原的なかたちである語り部の姿を通して、現代における「物語」の意味を問う傑作。

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『ボヴァリー夫人』を好む理由として彼は、「子供のころから、均斉がとれ、厳密に組立てられた作品、始めと終りがあってそれ自体で完結し、独立した完成品のような印象を与える作品のほうが、不確かで、漠然として、いまだ進行中で、未完の何かを暗示するような、開かれた作品よりも好きだった」ことを挙げる。つまり子供のころから彼には理想とする作品のイメージがあったわけだが、そのイメージに合った作品を自ら書こうとするとき、彼は作家となり、神殺しを行なって、もうひとつの現実を出現させるのだ。そこでは彼はオールマイティーである。

世界終末戦争 / マリオ バルガス=リョサ
世界終末戦争
  • 著者:マリオ バルガス=リョサ
  • 翻訳:旦 敬介
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:ハードカバー(712ページ)
  • 発売日:2010-12-01
  • ISBN-10:410514507X
  • ISBN-13:978-4105145071
内容紹介:
19世紀末、大旱魃に苦しむブラジル北部の辺境を遍歴する説教者と、彼を聖者と仰ぐ者たち。やがて遍歴の終着地に世界の終りを迎えるための安住の楽園を築いた彼らに、叛逆者の烙印を押した中央政府が陸続と送り込む軍隊。かくて徹底的に繰返された過酷で不寛容な死闘の果てに、人々が見たものは…。'81年発表、円熟の巨篇。

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その彼が最近大統領選に立候補したという事実には、本人の弁も含め様々な解釈が成り立つだろう(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1990年)。だが根本的には、混沌に秩序を与えようとする彼の文学的性向が、現実界においても発揮されたのだという気がする。虚構的現実から目の前の現実へと対象を変えたとき、作家には何ができるのか。ひとつの実験である。
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ユリイカ

ユリイカ 1990年12月

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