これまでのどんな小説にも似ていない
一九六〇年代から七〇年代にかけて、ラテンアメリカ文学の世界的な、いわゆる「ブーム」が起こった。日本でも八〇年代にかけて、国書刊行会の「ラテンアメリカ文学叢書」、集英社の「ラテンアメリカの文学」といったシリーズを中心にして、ガブリエル・ガルシア=マルケス、マリオ・バルガス=リョサといったラテンアメリカの作家たちの作品がどっと紹介されたときがあった。キューバの詩人ホセ・レサマ=リマが生前に刊行した、たった一冊の長篇小説『パラディーソ』は、その時期に翻訳紹介されずに残っていた大物である。難物として噂され、ようやく翻訳が出た『パラディーソ』を、実際に読んでみればどうか。これは生半可なことが言えない小説である。ひとつだけ確実に言えるのは、わたしたちがこれまでに読んだことがある、どんな小説にも似ていないということだ。それだけは間違いない。
無理を承知で、この小説のあらすじをまとめてみれば、スペイン人の血が流れている陸軍大佐の父と、クリオーリョ(生粋のキューバ人)の母を持つ、裕福な家庭に生まれたホセ・セミーは、幼いころから喘息に悩まされていたが、大学での友人たちとの交流を経て内面的に成長し、ことばの魔力を知って、書きはじめることを決意する、という物語である。ホセ・セミーの造形には作者レサマ=リマの自伝的要素が濃いところからも、教養小説としてたとえばジェイムズ・ジョイスの『若き芸術家の肖像』に似ているように思えなくもないが、もちろん『パラディーソ』は『肖像』にまったく似ていない。
そもそも、ホセ・セミーは主人公と呼んでいいのかどうか。彼が出てくる部分は全体の半分にも満たない。その代わりに、彼の父親や母親をはじめとして、両方の血筋の祖母など、五世代にわたる一家の物語も等価に語られる。つまりここには、はっきり中心と見分けられるものがなく、従ってふつうなら脱線に思えるような部分も決して逸脱ではない。本書のキーワードは「多面体」であり、ホセ・セミーは『パラディーソ』という立体を構成する面のひとつにすぎないのだ。
それで言うなら、あらすじに見られるような小説的側面も、やはりひとつの面にすぎない。ここには小説の枠組みを自ら崩そうとするような側面も存在している。登場人物たちはレトリックを多用した、およそ生身の人間がしゃべっているとは思えないようなことばで延々と講釈する。母方の祖母アウグスタですら「口を開けば直喩が出てくる」始末である。さらには、小説の最後近くになって、それまでまったく出てこなかった人物たちのエピソードが語られて、いったいこの小説にどういう関係があるのかと読者を大いに困惑させることになる。
それでは、この作品はいったい何なのか。わたしには、『パラディーソ』はラテンアメリカ文学という大海の深くに潜んでいて、今ようやく陸に打ち上げられた、グロテスクにきらめく怪魚のように映る。そう喩えてみたくなるのは、アルベルト伯父さんの手紙に出てくる魚たちの奇怪な描写が、本書で最も印象的な個所だからだ。その一部を引用する。
癒顎目(ゆがくもく)という戦士の部族は、顎に兜が打ちつけてあり、トールの槌(つち)をもって戦闘に向かう。<盗賊魚(ガラファテ)>は海のティレシアス、おどけ者、釣り針の悲劇的な意味を愚弄して、いたずら者、針だけを王様たちのために残して、自らの零の中で燐をめらめらと燃やしながら深みの底へと眠りにもどっていく。盗賊魚の近くには針千本、棘のかたまりだが、棍棒の扱いは下手、ずる賢い神学者で、生まれながら抜け目がない。一方は針に食いつかず、他方は舳先(へさき)に詐術で対抗する。
これを聞いたホセ・セミーは、「漁師たちが魚を引きあげるのを眺めているのと同じ感覚」をおぼえ、「単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ、歓びに満ちた動きをもって姿をあらわして」くるという啓示を受ける。ことばの本来の意味をいったん脱却させながら、ことばとことばを人工的に組み合わせることで、そこに新しい広がりを出現させること。それはある意味で、詩の書き方に他ならない。『パラディーソ』のほぼ全体に群がっているのは、こうした「新しい合唱が生まれたことの歓喜に身をよじって」いる「ことばの魚たち」である。
そう考えると、『パラディーソ』の登場人物たちが隠喩や換喩を多用した長々しいしゃべり方をするのも納得できる。彼らは身体的特徴などの描写によって人物造形がされるのではなく、使うことばによって造形されている。言い換えれば、登場人物たちはことばとして実体化されているのだ。
ホセ・セミーはコプト語の単語「タミエラ」から瞑想を繰り広げ、その「多数の重なりあった鱗が、この泳ぐ言語的身体のきらめきを作っていた」と書く。そのことばの魚は、「言語的多面体」としての『パラディーソ』に、なんとよく似ていることだろうか。